ドキドキぼーいず『じゅんすいなカタチ』 –現代日本に生きる責任–

 劇場に入ってまず、舞台が遠いな、と思った。2メートルは離れているだろうか。通常の小劇場のしつらえより、明らかに遠い。薄明るい舞台中央に位牌が印象的に置かれているのが見えた。舞台上手(かみて)にぶらさがっている綱は首つりを連想させるもので、その形状は禍々しい存在感を発している。

 『じゅんすいなカタチ』は、第6回せんがわ劇場演劇コンクールのグランプリを獲った、ドキドキぼーいずによる受賞記念公演だった。ドキドキぼーいずは、京都造形芸術大学出身の本間広大が2013年に旗揚げ。京都を拠点にして活動する若手の劇団である。

 物語は時間をさかのぼる形で進んでゆき、しおり(ヰトウホノカ)の兄・直樹(佐藤和駿)が自殺したこと、母も死んでいること、そして父(西村貴治)がかつて失踪していたことなどが徐々にわかってくる。クリスマスパーティの夜、テレビの向こうでテロが起きた。父は言う。「最近海外は物騒だね。日本で良かった」。しおりはそれに同調するが、しばらくしてこう呟く。「テロってさ、日本でも起きるのかな」。その言葉に父は「きっと、東京だけだよ」と言い、しおりは安心したような表情をする。その直後、直樹は首をつって死んだ。

 脚本での時間操作に加えて、俳優たちの発話の方法も少し特殊である。登場人物たちは胸のうちを抑え、心とは裏腹の言葉を喋る。また、赤裸裸に心情を吐露したりすることもある。そのたびに俳優は声を張り上げたり、腕を不自然にだらんと垂らしたり、そうかと思えば頭上に向けて高々と差し上げて硬直したりする。揺れ動く人間の心情を描く、特殊な演出だ。観客から遠く離れて設置された舞台とあわせ、観客の安易な感情移入を阻む効果を持っていた。

 しかし私は、そうした目を引く演出以上に、本作の戯曲において、至近距離の問題から遠景の社会情勢までがフラットに扱われていたことに注目したい。せっかくクリスマスケーキを買ってきたのに、誰にも食べてもらえなかった直樹の恋人・愛弓(片岡春奈)の寂しさ。煮え切らない彼氏に愛想を尽かすしおり。一人一人の小さな切なさに追い打ちをかけるように、若者の貧困や介護という社会問題が描かれる。それらは個人の力ではどうにもできないが、個人の生活を著しく浸食するものだ。その背景にさらに、テロや戦争という大きな災いが迫る。直樹と愛弓が働いていたのは、ミサイルの製造工場であった。


写真提供=ドキドキぼーいず(禁無断転載)

 思えば、演劇における「遠景としての戦争」の系譜は長い。1994年の『東京ノート』で平田オリザは、戦争の勃発したヨーロッパから絵画を預かる日本の美術館を舞台にした。そこには平和運動をやっていた学芸員や、徴兵されてヨーロッパに行く男たちが登場する。しかし物語の主旋律はあくまで、東京を訪れた女とその義妹の交流であったり、偶然再会した元恋人同士の複雑な心情を描くことにあった。あるいは2004年の岡田利規『三月の5日間』では、イラク戦争に反対するデモが描かれた。男と女はイラク戦争を頭の片隅に置きながらも、渋谷のラブホテルでセックスを続けた。舞台はいずれも「東京」だった。
 そして2016年。時代を追うにつれてどんどん近づいてきた戦争の足音は、今や日本においてもかつてない切迫感を持っている。重大なのは、「東京」の外へそれがひろがっているということだ。若い作家がそれに向き合う時代が、もう来ている。遠景であり続けたはずの戦争は『じゅんすいなカタチ』でついに、登場人物を自殺に追い込んだ。それも地方都市の、工場勤めの、普通の若者を。

 もちろん、戦争だけが直樹を殺したわけではない。今の日本では、この作品で描かれた様々な問題が、それぞれバラバラなままに襲いかかってくる。



直樹「お母さんな、倒れてたんだよ、ベッドに上半身がもたれてて、あーまたかーって思って、仕方ないなぁって思って、病院連れて行かなくちゃーって思って、思ったのに、身体動かなくてさ、やばいやばい、あと1時間もこのままにしてたら死ぬかもって思ったのに、電話とる気になれなくて。」
愛弓「うん。」
直樹「俺、お母さん、殺しちゃった。」
愛弓「うん。」
直樹「なのに、なんで俺は、今、楽なんだろう。」



 直樹は、介護していた母が脳梗塞を起こしても救急車を呼ばなかった。誰かが死んでしまうことと、積極的に殺しに加担することは違うはずだ。しかし不作為でも人が死ぬし、工場でミサイルをつくっても人が死ぬ。そのことに直樹は、心底絶望したのだろう。



しおり 「ただ、そういう人の傍にいたら、あたしは生きていけないんだなぁって思って、生命の危機みたいなものを感じて、あ、死ぬな、いずれ、こういう人と一緒にいたら、って思って、そういう感覚をね、お兄ちゃんに感じたのね、お母さんが死んだ時あたりに、だからお兄ちゃんの傍にいちゃ、死ぬなって思ったのね。」



 しおりが、最近デモを始めた友だちに感じた危機感と、兄の直樹に感じた恐怖は、「気づいてしまった人間」への本能的な警戒感だった。日本と自分の「未来」を真剣に考えることは恐ろしい。低収入や年金問題、高齢化など、現実に向かい合うほど自分たちの生活がいずれ破綻するとわかってしまう。だから「気づいて」しまった人の側では生きられない。しおりはそう決めて、自分を取り巻く現実を見ないようにした。だが、先に死を選んだのは直樹だった。

 母や、直樹や、ミサイルで殺される遠い国の人々。この作品には、多くの死の影が重くただよう。70年のあいだ空襲にも大量虐殺にもさらされることのなかった日本が、「一瞬にして多くの命が失われる」事態をあらためて意識するようになったのは、2011年の東日本大震災が契機だったと言えよう。昨年、本間が出演し、第60回岸田國士戯曲賞にノミネートされた柳沼昭徳『新・内山』では、戦争での死者と天災での死者を重ねてイメージするような描写があった。戦争も天災も「理不尽な死」という意味では共通するが、人的な原因がある戦争と、誰のせいにもできない自然災害は、本質的には異なるはずである。

 しかし、自分が生き残ったことに責任を感じてしまうことにおいては、戦争と天災は似ている。ラストシーン、スクリーンに映し出される「わたしたちは むせきにんな ひとごろし」という文字を読む。本間も、おそらくは「気づいて」しまっているのだ。息をして、生きているだけで、どこか遠くの人を殺してしまう世の中であることに。死んでいった人たちがいるのに、今も生きている自分が申し訳ない。でも生きたところで先もない。直視するにたえない悲惨な未来しか、私たちには本当に、ないのか?

 そんな問いもむなしく響くほど、この物語では死者も残された人々も救済されないまま終わる。生き残った登場人物は、やるせなさや後悔を抱え続けるだろう。時間を逆行した物語は、これからも日本のどこかで増殖し、再生されつづけるだろう。悲劇は終わらない。それこそが、この国の絶望がまだ底を打っていない証拠であり、25歳の本間広大が見つめる現代なのである。


【筆者略歴】
落 雅季子
1983年東京生まれ。2009年頃より演劇・ダンス評を書き始める。「CoRich舞台芸術まつり!」2014, 2016審査員。金融機関向けのシステムエンジニアを経て、現在はフリー。現在はBricolaQで毎月のおすすめ演劇コーナー(マンスリー・ブリコメンド)やインタビューのシリーズ(セルフ・ナラタージュ)を担当。ドラマトゥルクとして、主宰の藤原ちからと共に遊歩型ツアープロジェクト『演劇クエスト』を各地で創作。インタビュー、座談会、批評文、小説まで幅広い文体で活動中。






【上演記録】
ドキドキぼーいず『じゅんすいなカタチ』

会場
調布市せんがわ劇場
http://www.sengawa-gekijo.jp
日時
3月10日(木)-13日(日) 


Cast
ヰトウホノカ
佐藤和駿
松岡咲子
(以上ドキドキぼーいず)
片岡春奈
西村貴治
諸江翔大朗

Staff
構成・演出       本間広大
照明          鄒樹菁
音響          島崎健史
映像          坂根隆介
舞台美術・宣伝美術   渡部智佳
(以上、ドキドキぼーいず)
舞台監督        稲荷(十中連合)
舞台美術補佐      濱田真希
演出助手        藤野奈緒 / 藤崎沢美
CM          斎藤努
共催          調布市
後援          NPO法人京都舞台芸術協会

企画・製作       ドキドキぼーいず