10/28 セクシーボイス……

昼にキコを観て、夜にロロを観た。これもツイッターに書いた通り。とりあえずは。



なんとなく不意に思い出したのは、先日、某批評家氏と飲んだ時に、「結局みんな、自分にとって口当たりの良い言葉しか求めてないんじゃないですかね」と珍しく愚痴ってしまった時に、「おいおい、何を今さら、そんなの当たり前じゃん」的な顔をされたことだった。批評家の孤独を感じたのだった。


甘言を弄することは簡単である。お好みとあらば、七色のセクシーボイスで甘い言葉を囁いて差し上げますわ。


そしてまあ大体それによって国やら組織やらは腐敗して滅びるわけだ。


ところで昔よくその某批評家氏に、君はほんとすぐ対象にコミットするよね、みたいにしばしば批判されたのだが、それにはわたしも言い分があって、傍からみればそれは確かにコミットしてるように見えるかもしれないが、わたしは全然距離を保っていたつもりだった。たとえ首の皮一枚であってもその「一枚」があることが重要だった。例えば、関係が近いからといって褒める、みたいなのはカッコ悪いことだと思っていた。しかし、言わせてもらうならば、世の中には、親しいからとか、褒めると得だから(仕事もらえるかもしれないから)褒める、みたいなことが、ずいぶん横行していると思う。だからわたしは、俳優の作品評はほとんど信用していない(仕事をもらえるかもしれない演出家の作品を批判できるとは思えないから。あ、ただし例外ももちろんあります)。

前に磯部涼くんが「ゴンゾ・ジャーナリズム」とゆう言葉を使ってくれて、それでああなるほど、と少し思ったのは、対象に深く入っていくからこそ見えるものがあるとゆうことだった。引いた立場であれこれゆうのも、まあ批評家のひとつのやり方かもしれぬ。でもわたしは、純粋なる批評家とかではなく、編集者だったりもするので、ちょっと対象との距離感が違っている。しかも、出版社所属の編集者とかではなく、フリーランスなので、さらに距離感も変わってくる。

そして、そうでなければわたしは劇評を書くこともなかっただろうし、いろんな人たちに出会うこともなかっただろう。そして今頃、野垂れ死んでいたかもしれない。冗談抜きに、です。

ついでにいえばわたしは、いわゆる編集者と呼ばれる人たちが、いったいどれくらい新しい才能の発掘に力を入れているか疑問であった(もちろんのこと、皆無とは言わない)。どの雑誌も、ある程度名前の売れてきた人間たちの使い回しではなかったか。わたしはそういったことに与するまい、と思ってやってきたけれども、まあそういった企画はなかなか売れないので、苦境を迎えることになる。でもそうしたことは自分を信じられていないとやっていけないので、まあやってきました。やってきましたよ。石投げられながら。馬鹿にされながら。それでようやく少しずつ、手応えを得始めたかなあ、とゆう今日この頃ではあるのです。まだ全然だし。いや、ほんと全然、なんですけどね。絶望しかかるけど、支えてくれる人がいるので、本当に助かっています。感謝の言葉は本当にいくらしてもしたりない。

まあたぶんわたしのやり方はかなり独特かもしれないので、同じような感覚の人はあまりいないかもしれないし、その点はまあ、仕方ない、と思う。けどねえ……ま、がんばりますね。いろんな人と共闘したいです。


それはそれとして、関係あるようなないような話だけど、今日は自分に、20代の時には全然なかった粘り腰のようなものを感じて、ああ、これのおかげで救われているなあ、と思いました。タフにいきたいと思います。Q