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運命に立ち向かう、意志、について考えている。

大切にしているものを、風がさらっていくとする。人は、どうするか。奪われた上に、精神的にも傷つくのが怖い場合、その風もまた運命と認知して、いたしかたない、と諦めることで自分の精神を保ったりする。

わたしはそうやってこの数年をやりすごしてきました。

だけどもうそんなのはイヤなのです。この国の、日本型運命論のようなもの、お上と、政治家と、資本家と、天皇と、国体と、神様と、仏様と、自然の脅威、のようなものが渾然一体となったものを漠然と運命と捉えて、その前で敗北する、とゆうことにまったくもうゴメンだとゆう気持ち。

同じ敗北するなら、わたし自身の意志を示して、その責任のもとで敗れたい。

もっといえば、そう簡単に奪われてたまるかこんにゃろーと思う。わたしはこれまで数々の簒奪を許してきたけども、それで懐の広さを示した気にでもなっていたのか? だとしたらそんなのとんだ思い違いで、単に敗北の責任を引き受けるのが怖かっただけなのだと思う。

結局わたしは、未来のことを考えたい。それは運命とは関係ないことだ。未来は意志がつくる。加えて、知恵、技術、才能、人脈つまり人の縁、それから、運。それはからむ。運がある以上、未来はある程度、偶然によって左右されるほかない。それは、様々な可能性に対して、門戸をひらいておく、とゆうことでもあるだろうし、そこは柔軟でかまわない。だけどそれは運命じゃないのだ。何ものにも定められてはいないのだ。その意味で、神様はいない。もしそんな、未来を運命にしてしまう神様がいるとしたら、不敬ながら、わたしは反旗をひるがえすだろうな。繰り返すけども、最初にあるのは、意志。そこに能力、それから運が絡んでくる。運はある。だから勝ったり負けたりはある。とはいえ、人生はギャンブルではないのだ。ギャンブラー気取りのお気楽なその場かぎりの風のような収奪を、わたしは決して許さないだろう。Q