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すっごく楽しみにしていた取材が、先方の飛行機が台風の影響で飛ばず、流れた……。リスケがうまくいきますように。そのほかもろもろ、台風の影響が。それでなんとなく自宅で小津安二郎の『お早よう』。カギをかけないこの土手沿いの住宅群(集落?)は、1950年代後半の当時の東京では、どのくらいの階層にあったのだろう? おなら遊びをしている弟クンと笠智衆が可愛い。


言葉について考える。たしかに『お早よう』のあの子が言ったように、オトナもくだらないことばかりお喋りしているのかもしれない。おはよう、こんにちは、こんばんは、御機嫌いかが、また明日、いいお天気ですね、云々。そうした他愛もない言葉を「のりしろ」にして、互いに異質である人間たちがゆるやかに連帯する。


孤独について考える。人間はやっぱり最終的にはひとり、なのかもしれないけれども、意固地になって孤独を確保しよう、とかしなくても、どのみち結局ひとりなのであり、ゆるやかに、手を繋いだり、夢を見たりしてもいいのじゃないだろうか。


生命について考える。生きていること。生まれてきたこと。死んでいくこと。すべてはもう惰性ではいられないし、ある意味で様々なものに生かされていると同時に、実は生きていることを選択してもいるのではないか、とも思う。こうした考えは少し危険かもしれない。けれど、今この瞬間にも絶望に呑み込まれた人間はいるはずであり、そして、命を失う人もいる。何が「正しい」かを判断するのもまた言葉だけれども、それよりも今は、もう少し別の感覚、「言葉」に結実してしまう前のふわふわと浮かんでいるものたちを、信じてみたい。例えば昔の人はそうしたものを妖精や物の怪と呼んだのかもしれない。Q