8/25 お盆休み

疲労が溜まっていて、ぐったりとなった。いくつか返さなければならないメールとかもあるけれど、もう今日はお休みってことにしちまおうと思う。飴屋さんとこの娘御のくるみちゃんも自らお盆休みを宣言していたようだし、ここはひとつ、倣おうと思いました。一日、できるだけダラダラして過ごす。

夕方、文庫本を一冊持ってあとは手ぶらで銭湯行って(タオルは無料で借りられる)、休肝日にしようかなあと思いつつも、つい惹かれて近所の定食屋に入って、ウーロンハイを飲みながら小説を読んでいた。10代の頃に貪るように読んだやつ。


最近「場末感のあるもの」に惹かれる。いや、最近てことでもないか。なんか、きらびやかなものが一切ないのがよい。若くて可愛い女の子なんか当然いない。ギラギラした男の子もいない。つまり恋も野心もここにはない。くたびれたおっさんやおばさんが加齢による不可避の傷を負ったその羽を休めているだけだ。これは失礼な言い方かもしれないが、彼らが実人生において大成功を収めているとは到底思えない。どちらかといえばゆるやかな敗者であり(どのみちみんな最後は死ぬのだからとゆう意味で)、まあ安酒を飲むくらいの金はなんとか懐中に抱えているといった風体の人たちだ。学も芸術もここにはない。しかし学や芸術はこの世界と表裏一体ではないかと、わたしはきっと心の底で思っている。

彼らと同化することは少年時代からのわたしの積年の夢であった。昔は無理だった。なにしろ圧倒的に若かったし、それなりに(使い途の分からない)才気をほとばしらせなければ気の済まないところがあった。今は違う。だんだんこの中に溶け込みはじめたなあと思う。わたしもまたゆるやかな敗者のひとりである。風景の一部のようにしてそこにうずくまっていたい。酒を飲んで目が爛々と輝くのもいいのだが、時には、こんなふうに澱んだ目で虚空を見つめていたい。この目をしている時のおっさんは何を考えているのか。明日の仕事のことか。甘美な思い出か。世の中や政治のことか。どれでもない気がする。ただ澱んだ目の中にしか存在しない思考や感情がおそらくあるのだ。わたしも幾らかはそれを感じとりつつある。

だけどこれはもはや、かつて思い描いていたような「同化」ではないのだろう。そうした同化への夢を諦めて、淡々と事実を受け入れるところから見えてくるものがあるのだと思う。

家ではほとんどお酒を飲まないが、ひとりで酒場で飲むのはわりあいに好き。でも常連さんと話したいとかいった欲望はほとんどない。仲良しコミュニティみたいになっちゃうのはあんま好きじゃないのだ。できればほっといてもらって片隅でちびりちびりと飲んでるのがいい。退屈することはほとんどないよ。Q