9/15 大衆娯楽とルネッサンス

自宅作業の日。今日は休肝日にするぜい、と思いつつもなんとなくの予感もあり、案の定やっぱり夜にお誘いありまして西荻窪に飲みに参りました。ついに初めてのハンサム食堂。いろいろ話も弾んでしまって終電をまんまと逃して歩いて帰りました。


そういえば昨日から「寅さん」を見始めた。あらためてちゃんと観てみると素晴らしい娯楽映画だ。第一作のみずみずしさ。渥美清の名調子。妹さくら役の倍賞智恵子の可愛さは最強だと思う。もうね、さんざ泣いて笑って、ですよ。

このところ「戦後」の映画や小説に触れてきたせいか、「娯楽」や「エンターテインメント」について考えている。以前、よしだまさしさんの『姿三四郎富田常雄』を編集させていただいた時、よしださんから資料をお借りして読み込んだのですが、「姿三四郎」の生みの親である大衆作家としての富田常雄が実は純文学に憧れていた、といった記述があり、つまり戦前からすでに大衆小説/純文学の区分けはあったようで。その後、「中間小説」とか「エンターテインメント小説」といった用語が使われるようになるわけですが、エンタメ小説については、北上次郎目黒考二)さんの下で(文字通り下の階で)仕事させていただいた時期にいろいろ学んだ。……まあそんな話は今は置くとして。


で、最近、娯楽やエンターテインメントとされてきたものの強さがあらためて気にかかるのである。やっぱり人の心を捉えるものの強さは、侮れないのよね。「媚びる」とか、いわゆる「俗情との結託」とも違って、人の心をぐわしと掴んで離さない、その強さ。

寅さんもウェルメイドと言っちゃえばそうなんだけれども、ここ10年20年くらいのそれと決定的に違うと思えるのは、人々(=大衆、people)の中から立ち上がってくる強さをそこに感じさせるところだ。この強さが今とっても気になる。逆に、線の細いものを見てもなんにも心に響かない。

たぶん、今ではまったく無きことにされてしまったデジタルデバイドの問題もひとつ大きな要素としてあるのではないか。ネットが使える人たちはそこで自家撞着的なコミュニケーションを発達させていくことに成功したけれども、それは果たして「成功」だったのかどうか。何か大変なものを置き去りにしてきたのではないか。寅さん第一作で、「これからは電子の時代だからねえ」とばったもんのインチキブレスレットをカバンから取り出すのは、今となってはなかなか皮肉が効いている。

単なる過去への回帰ではなく(当然だ)、現代版のルネッサンスがありうる気はするな。


ここ数カ月、日本のいろんな土地を旅してきた。東京の芸術をことさら卑下するつもりもないけど、でもやっぱり、ここにいる人たちに届くものを作りたい、とは思った。そして「前衛的」であることと「大衆的」であることとは、実はそんなに矛盾しないのではないか? 例えば東京デスロックとかマームとジプシーとか見てると、そんなふうにも思えてくるのでありんした。Q