劇評セミナー(UST)から考えた覚え書き

この日の理想の過ごし方としては、ワンダーランドの劇評セミナーを聴講して、それから木下美紗都×サンガツ(with蓮沼執太)のライブに行く予定だった。どうやら(やっぱり!)素晴らしいライブだったみたい。あるいはサッカーを観に行く手もあったけどすべて断念。体調の快復を待って寝つつ、劇評セミナーのUSTを見たりした。

USTは回線の調子が悪くて残念ながらごく一部しか見れず、ちゃんと議論に沿ったことは言えないけれども、リハビリも兼ねて以下に覚え書き、とゆうかわたしなりに今「劇評」について思うことを記しておきたいと思います。もやもやしたものをアタマの中に残しておきたくないし、こんな機会でもなかったら書かないので。批評論、みたいなのはよくツイッターとかでも流れますが、書き手の数だけ批評論はあると思うし、それ以前のどうでもいいものには関わり合いたくないし……。とか、まあ前置きはこのくらいにしてとりあえず書いてみますわ。


ツイッターと「劇評」の速度

まず、「インターネット以後」がひとつのテーマになったようですが、ツイッターユーザーがパネリストに加わっていたらまた違う流れも見えたかもなと思います。木村覚さんが仰っていた「もはやいわゆる〈THE・劇評〉の時代ではなくなった」こと、それから「専門家の時代がまたやってくるだろう」との予測、いずれもその通りだとわたしも思いました。ただし専門家の復権があるとしても、おそらくそれは単なる過去への回帰ではなく、専門的知見や歴史認識も含めた新しい「様々な語りの空間」になるだろう、とゆうのがわたしの観測です。木村さんもそうした意味で仰ったのかもしれません。

で、だからこそ、ツイッターが果たしえた役割をもっとある程度きちんと評価したほうがいいと思いました。単に「素人がツイッターで感想を言えるようになった」とか「その勢いが集客に結びつくようになった」だけじゃなく、そもそも語りの土壌そのものが転回してしまったのではないか。わたしが思うに、ツイッターを使う人間は、ある種の機動性(mobility)や敏捷性(agility)を持った活動状態(activity)を獲得したと思うのです。そこから「観たものについての語り」がばんばんリアルタイムに繰り出されてくるわけで。

そのツイッターに比べて、つねに遅れてしまう(delayしてしまう)「劇評」なるものは(雑誌とWEB媒体でその遅れの速度は異なるわけですが)、どのように在りうるのか。そして「劇評家」と呼ばれる存在はどのように在りうるのか。その遅れに対してどのように向き合うのかは、当然問われてくるだろうと思います。

(ちなみにわたし自身は、自分の書くものが「劇評」でなければならない必然性はほぼ無いので、今のところ一度も「劇評家」とは名乗っていません。そして、ツイッターの速報性と、遅れてやってくる劇評のようなものとは、決して相性が悪いわけではなく、後で少し書くように、その時々で使い分ければいいと考えています。)

世の中や時代との距離

それから届け方について。演劇公演にしても劇評にしても、ひろく言えば、世の中に届けられることが必須だと思います。それでこそ公共性(public)は担保される。しかし、では「世の中」とは何か? そしてどのように届いていくのか? そこには様々なルートによる波及の仕方があるはずだし、観客や読み手がそれを受容するポテンシャルについては低く見積もらないほうがよいと思っています。例えばダイレクトに煽動的に誰か一定の読者層に呼びかけられることもあれば、投壜通信的に思いがけないところに(誤配を含んで)届くこともある。あるいは伝言ゲームよろしく口から口へと(RT的に)届けられていくこともある。その方向性は様々で、かつ重層的に絡み合っています。言説空間とはそのようにしてかなり複雑に構成されている。そういった時にもはや〈THE・劇評〉が時代錯誤で役者不足だと思うのは、それが言説空間を駆け抜けていくだけの動的なコミュニケーションの力を欠いているからであり、その書き手は、時代と寝ていくような覚悟、時代を生きていく姿勢を欠いていると思います。それでは投壜にすらならない。

もちろん、時代から距離をとり、現在の、日本の、演劇の、狭い文脈を突き放していくような態度も時には必要だと思います。とりわけ、丹念で丁寧な研究は様々な分野において必要です。だけどそれらの研究者的態度にしても、動的なモチベーションによって現在の状況(situation)に接続されることで現在性(actuality)を獲得することはありえます。例えば象牙の塔に引きこもっている演劇研究者がいたとしても、それを現在にアジャストさせて通訳していくような人材や回路(translatorやprompterやeditorやdramaturg)がまた別にあれば、それは活き活きとした現在に繋がりうる。

あるいは様々なジャンルをクロスオーバーするような未知の出来事があったとしても、それをじゃあ演劇やその他の文脈に重ね合わせて読み解いてみたらどうなるかな、といった試みがあれば全然届き方が異なってくるわけです。

媒体に書くこと

そしてこれも木村覚さんが確か指摘されていたように、紙媒体に書いたらそれが読まれる、と漠然と前提にできるような時代はもうすでに終わってしまった。ある種の文章については、むしろウェブのほうが読んでもらえる公算が高かったりする。しかし紙媒体のほうがお金が発生しやすい状況が現状ではまだあるわけで、ではどうするか。そこを書き手は考えてそれぞれの手を打っていくしかないのだと思います。(わたし自身の考えとしては、とにかく食いつなぐことができる状態が何らかの形で確保できるのであれば、書く仕事としては、お金うんぬんはまずおいても自分の仕事として積み重ねられる手応えのあるものを書きたい。それが自分の尺度としてオッケーだと思うのであれば、売文であれ高尚な書き物とされるものであれ何ら変わりはないと思うのです。そうした考えを持つのはわたしがどちらかといえば編集仕事を本業にしているせいかもしれませんが、沖仲仕をしながら書いていたエリック・ホッファーみたいな作家もいるのだから、その人にとって書くためのふさわしいリズムが生まれるのであればどんな手段で生活してもよいと思う。)

また、同じ人間が書く時でも、例えばロングレンジで構える時と、ショートレンジに構える時とがある。あるいは様々な文体がありうる。書く媒体の読者層や、その時やりたい狙いによってレンジや文体は変わってくるわけです。これは読者に媚びるとゆうよりも、むしろ書き手の戦略的な問題としてあると思っています。逆に、そうした構えや狙いがなく無邪気に無自覚に書かれる劇評は、現在の状況に対してほとんど力を及ぼさないように思う。たとえ記録のアーカイブにするにしても、それなりの意識がないと難しいのではないか。(いちおうわたしは、書いたものが後々、少なくとも数年後に参照されるであろうことは意識しています。そのためにどれくらいの事実性をこの媒体に記録しておくか、は考えるとゆうことです。)

「シーン」について

ただ、あまりにも現在性やら文脈やらを気にしすぎて、空気を読み、その筋の権力者の顔色ばかり窺い、語りが語りを自己生成していくことに熱狂的に陶酔するようでは、そのことに自縄自縛になって結果的に閉塞してしまうわけです。そうした例はこの日本にもなかったわけではない。そこでは言葉は過剰になりシーンが盛り上がっているように見えるけれども、結局は語彙が貧困になり、ある層を囲い込むことになっていく。そうした終末的事態は、しかし、ごく簡単な心がけによって防ぐことができるはずです。つまり、あくまで現に存在している作品を、自分の語り(言説)よりも優位に立たせること。作品の前に這いつくばること。語り(言説)、は、作品があってこそ生まれるのだから。例えば「世代論」を筆頭に「シーン云々……」といった語り口をわたしが警戒するのは、シーンや自分の言いたいことのために作品を奉仕させようとするあまり、作品そのものをないがしろにしかねないからです。

ただし、時と場合によっては、シーンを生み出す(捏造する?)覚悟も書き手には必要かもしれない。何かしらの文脈がなければ、そもそも参照してもらえない状況だってあるわけです(こうしたことについては、美術の世界の若手たちはとりわけ敏感であるように感じています。もちろん、村上隆が投げかけた問題提起があるためでしょう)。実際、文脈を掘り起こしたり新たに創出したりしないことには、作品はただ個別のものとして消費されて終わってしまうかもしれません。とゆうか、消費さえされずに埋もれてしまうかもしれない。それに、ただ個別の作品至上主義になっても、目先のものにだけ目を奪われて近視眼的になりかねないわけで。世の中は刻一刻と変化しているし(あるいは認識の仕方によっては全然変わってないとも言えるのだが)、もはや日本の、東京の、芸術シーンだけを見ていればそれで安泰というような牧歌的状況でもなくなっている。だから劇評やそれに類するものを書く人間は、つねに自分が書くものの距離感やレンジ(射程)や立ち位置を考えざるをえない。どうやったら他人に自分の言葉や扱う作品を届けられるのか? そしてそれは今、本当に必要なことなのだろうか? これはある意味では勘や責任感のようなものを必要とする作業だと思うけども、大変スリリングでもあるので、面白いなあ、とわたしは感じています。

作家や作品との関係

あと、さっき「作品の前に這いつくばる」と書いたけども、だからといって絶対に卑屈になってはいけないと思うのです。作家と、それを批評する人間とは、対等な立場にあると考えたい。もちろん言うまでもなく、作品や観客との距離感について、作家と批評家では全然不均衡極まりないなのですが、公共性をもった(publicな)プレーヤーとしては対等なはず。そう思うのは意外に大変なことです。とゆうのは、作家は「作品を生み出した」とゆう最大の武器をその手に持っているわけでそれは絶対的事実としてあるけども、批評する側にはそれがないからです。しかし、ある作品に向き合うこと、対峙することも、作品を生み出すのと同じくらい(全然同列ではないけど)ヤバいことなのだ。……とゆう、そのくらいの覚悟がない人間はとっとと劇評とか書くのやめちまえと思います。あと友達が欲しいだけの人間も出会い系SNSとかをせっせとやってればいいと思う。あなたの寂しさを埋めるためのものじゃないんだよ。てゆうか悲しいことに、むしろ書いたら孤独は深まるものだと思うけどね……。

これからの「劇評」

でも今言ったことと矛盾するようだけど、いろんな背景を持った人がいろんなものを見て、いろんなことをいっぱい書いたらいいとも思っています。たぶん「ツイッターの感想」旋風もひと段落して、これからいろんなレンジを持った語り口が待望される頃合いだとも思うので。雑誌はどんどん潰れていて、既存の媒体に書くのはますます難しくなっていますが、とはいえ媒体(メディア)が皆無になることはないので、また新しい回路は生まれてくるでしょう。てゆうか、無ければ作ればいいのだし。

だから今回の劇評セミナーみたいなのはどんどんやってほしいなと思っています。劇評セミナーで書いたものをF/Tの劇評コンペに出すのもアリだと聞いたので(正確なことはワンダーランド編集部に訊いてみてください)、なんかすごく面白い書き手が現れたりしたらいいなー。特に、

・若手劇団の作品を冷静かつ情熱的に評価できる書き手
・ジャンルの枠内に留まらない現象を捉えられる書き手
・それらを(演劇にかぎらず)歴史的文脈に接続できるような書き手
・東京以外の場所(地方や海外)で起きていることをレポートできる書き手
・既存の文脈やシーンに囚われず、豊饒な事実そのものを文章化できる書き手
・埋もれてしまう何かを発掘できる書き手
・「芸術」の枠内に留まらず、人々の生活や世の中の状況と接続できる書き手

がいたら嬉しい。活性化すると思う。「劇評セミナー2011 F/T編」のURLはこちら。
http://www.wonderlands.jp/archives/18652/


今思うのはそんなところかしら……。思ったより長くなりましたね。とゆうかUSTはあまりにも断片的すぎてせっかくのお話が途切れ途切れにしか聞けなかったので、やはり現地に行きたかったです。たぶん経験不足のわたしとかより遙かに面白い話が聞けたはず。わたし自身は仕事量が全然足りてないと思っているので、自分の仕事に戻ることにします。でもわたしが劇評を書き始めた去年の春に比べたら、だいぶ空気感変わってきたなあと思ってはいます。ちなみにところどころの単語を英語にしたのは、単に(書くわたしの/読むあなたの)意識を際だたせるためです。




あと、チケットを無駄にしてしまった『無防備都市』が何かと物議を醸しているようで、それについて(特にパブリックとは何か、について)言いたいこともないではないですが、何しろ作品を観られなかったのでひとまず今は沈黙することにします。


さて日記に戻る。寝まくって、さすがに寝るのにも飽きたので、夜、高円寺にふらっと飲みに出た。熱燗が飲みたかったのだ。ひょいと某君が寄ってくれたので、小一時間ばかし飲む。短い時間で申し訳なかったけども楽しかったなー。一緒に時間を過ごすとゆうのは、孤独を埋める、ことではないのだなあと思う。それを分かっている人と飲むのは、心からくつろげるし、刺激的でもある。Q