10/9 「批評」……

西巣鴨へ。なんか、行けてよかった。書きたいことはほんとはたんとあるけれども、まあ、それはそれとゆうことで。


夜、帰宅したところでツイッターを見てしまって、ついツッコミを入れてしまう。あまりに疲れていたのでそれで寝て起きたら、その人はアカウントを削除していた。なんとも残念な気持ち。まあ、別にいつでも復活したらいいと思いますけど。あんまわたしはそうゆうこと気にしないんで。


そんなこんなで、別に彼に向けてとゆうことではなく、「批評」ってなんだろうね……と漠然と考えたのは、やっぱりわたしはある種の「強さ」が必要だと思ってる、とゆうことで。それがなければやっていけないし、そうでなくては守れないものがある。これはもう特にここ1年半くらいずっとそう思ってます。

というのも、わたしは「批評家」とゆうよりは、どちらかとゆうと出発点としては「編集者」的な関わりでやってきてるけれども、今の同時代に、優れた作家たちが(そう多くはないにしても……いやもしかしたら多いのかも)確実にいる。さらにはそうした人たちの背中を見て、面白い表現がどんどん出てくるかもしれない。そういった過渡期的な状況の中で、同時代を生きることは刺激的だし、それがどんなに貴重なことであるかは、過去の様々な芸術の歴史を紐解けばあきらかなわけです。モンパルナス、シェイクスピア&カンパニー書店、バウハウスシュルレアリスム宣言、そしてあのヌーヴェルバーグ、そのほか様々な雑誌や都市の芸術運動、そうしたものに匹敵する時代が今あるのではないかとわたしは思ってる。当然、そこで仕事をするならそれなりの責任が生じると思っているのです。これは全然大げさな話ではないと思います。


「批評」はおそらく「文学」と並んで、若い子たち(特に若い男の子たち!)にとっては魅力的な何かとして映るのだろう。麻薬みたい、いや、シンナーみたいなものだ。何か小難しそうな言葉を並べておけばそれっぽく見える、とゆうのは周知のとおりだし、世間の軌道からズレてしまった(といっても単に新卒採用に失敗したとかの)子たちにとっては、それは手っ取り早い自己承認の手段に見えるのかもしれない。なにしろそれっぽい「批評」をしているつもりになれば、世界に対してメタに立てる(ような錯覚を抱ける)のだから。

でも、そんなことでは続かないのだ。


とはいえ人間は「弱い」生き物でもあるし、おそらく、人間の「弱さ」を孕みもった「強さ」は存在しうる。それをものするためには、言葉の字面レベルでの思考は捨ててしまったほうがよい、とわたしは思う。そうしたところの先から新しい批評は生まれてくるんじゃないのかな? もっと困難なよく分からないもの、傷つきやすいものの中にある何かを捉えるのが批評の仕事ではないかと思う。例えばそれは地層の下に眠るものであるとか、薄闇の靄の中にあるものとか。あるいは水中の微生物。目に見えない放射能。毒。花束に吸い寄せられる虫。受粉。愛の交配。天体の軌道。一番星。夕暮れ。夜の湿った空気。朝の光。それか、汚物箱の中の生理用品。子供の声。売れ残った野菜。断裁される本。とかとか。

よく間違われやすいけど、言葉と感性って、実は相反するものでは全然ないと思う。言葉をあまり使わない人のほうが感性豊かに見えるとゆうだけのことだ(残念ながら、今は比率としてはそうなのかもしれない。実際、どうでもいい言葉はいたずらに感性の芽を摘んでしまう)。

そして言葉(=フィクション)を通じてどこかに行けると信じてない人の言葉は、わたしにとってはまったく魅力的ではありません。


そんでもって、執拗なトライ。とにかくトライ。その試行錯誤の繰り返しによってしか得られない筋力があるはず。ふにゃふにゃした駄文を晒してしまうのは、やっぱり日頃の言葉と思考の鍛錬を怠けているせいだと思う。たとえ酔っていたとしても、言葉は、その人のものとして刻印されてしまうのだから。そうした緊張感や継続性なくして「批評」とかありえない。


批評家もまた人間だから、失敗することもあれば、誤った判断を下してしまうこともあるだろう。1年や2年の問題ではなくて、もっと長い時間の中でやっていくことだし、そうした傷や失敗も含めて「その人」は醸成されていく。優れた批評家は、フラフラして見える中にもやはり貫通する何かを持っているものだと思う。数年、そしてゆくゆくは10年、20年、30年をかけて、様々な作品と触れ合い、関わり合いながら、みずからの言葉と思考をゆっくりと練り上げていく。この時、彼/彼女はほとんど思想家に近づいている、と感じざるをえない。世界と何らかの形で切り結んでいるのだから。そして、そこでしょうよ、批評の核心は、と思うんですねわたしは。個別の作品の何かをあげつらったり、ありもしないカテゴリーを無理くり捏造したり、つねに「正しい」ことを言うことが批評家の仕事の本質ではないと思う。

でもだからこそ、その人ならではのフォームが崩れてしまっているようではやっぱりダメじゃないかな。アカンでしょ、それは。


わたし自身はまだおこがましくて「批評家」とか名乗れないし、また名乗るつもりもない(一生名乗られない/名乗れないかもしれない。おそらくは先行する批評家とは違う形でやってかざるをえないと思うので)。こないだ、銀座のトークでは「批評家」と紹介していただいたけれども、あれはアウェイだったしまあ訂正しなくてもいいかと思ってスルーしたのであって、やっぱりもっと筋力つけないとそんなふうには名乗れないなあと思ってます。でも、やってることはどうしても「批評」の領域に踏み込まざるをえないことはあるし、それを恐れる必要はないとも思ってる。

まあ逆に言うと、何も焦る必要はないとも思うんですよね。いつか死んでしまうのだし、それまで精一杯生きるだけだよ。Q