11/19 『往転―オウテン』

嵐のような雨。折れた傘がそこらに転がっていた。


シアタートラムで『往転―オウテン』。素晴らしい舞台だった。この日記を書いている11/21現在ではすでに公演も終わっていると思い、ネタバレしています。見たくない人は以下読み飛ばしてください。


ある夏にバス事故が起こり、その前後を時間的に行き来する……だけでなく、そこに「錯覚」をうまく利用している語り口が秀逸だった。例えば病室が登場する。となると普通、バス事故が起きた後だから、「事故で怪我をした患者に違いない」と観客は予想するわけだが、実はそれが別の理由で自殺を図った女の子であると判明する。ふーん、そうか、と思えばだいぶ後になって、実はその隣のベッドにいたナルコレプシー睡眠障害の一種)を自称する男が、やはりバスの運転手であったことが告げられる。しかし、しかし、さらにその男との会話も、実は幻にすぎなかったことが分かる。……といった具合に、事実認識が二転三転していくのが面白い。そうした観客の認識に「錯覚」をもよおさせる要素は他にもあって、例えば、他人のそら似(同じ顔の兄弟、一人二役、など)であるとか。例えば、映像が録画なのかライブなのか曖昧だったりとか。例えば、ティファニーの指輪が本当はいったい誰のものなのか、とか。要するに様々な仕掛けが各所に振りまかれており、一見バラバラな幾つかのエピソードが、単に「バス事故という共有体験」のみならず、そのような不確定な想像を誘う「錯覚」によってかろうじて繋ぎ合わされ、やがて徐々にその結びつきを強めていく。これは、うまい、見事だなあと思った。

そしてそういった複雑なはずの関係を、舞台を左、中央、右の三面に分け、さらに中央に回転式の装置を据えることによって、視覚的にハッキリとシンプルな形で観客の前に現前させている。優れたエンターテインメントとして成立していた。


ただ、あえて難を挙げるとするなら、そういった「錯覚」による効果は、ストーリーを飽きさせずに牽引する力をもたらしてはいたものの、もっと不穏な何か、を呼び寄せるものではなかったように思う。これは、場転の鮮やかさについても言える。実に見事に次のシーンへと切り替わっていくことで、いわゆる「余韻」を残すことには成功しているものの、スッキリとしすぎているがゆえに、名付けえない不気味さを舞台に蓄積させるようなことにはならなかったのではないか。もっと、わけのわからない、全体のストーリーに何も貢献しないような、裂け目のような状態が、ぽっくり舞台にひらいていても良かったのではないかと思うけれども、それはわたしの嗜好性のせいだろうか?

これは無いものねだりかもしれない。そういった不穏なものを目指すのではなく、軽妙かつリリカルな人情話を試みたのだとしたら、この公演はかなり成功していたと思うし、実際、わたしも感動でほろりと涙を誘われた。あえて人間の中身にあるドロドロとした心情を描くのではなく、表面上の絶望に留まる、といったやり方は、それはそれで大人の表現作法としてありうるものだろう。

この物語の中では、結果的に誰ひとりとしてお決まりの「幸福」に収まらない。かといって(死者がいるにも関わらず)バッドエンドとゆうわけでもなかったのだ。そして俳優個々の演技こそ目立ったものの、演出上・戯曲上の作為をあまり感じさせない仕組みになっていたせいか、「福島」を描きながらもイヤらしい(これみよがしな)感じは全然なかった。人によって感情移入するポイントは違ったと思うけれども、わたしは、IT実業家とおばさんとの心温まるエピソードや、市川美和子演じる正体不明の女の佇まいといったものに、心を惹かれました。できれば母親と一緒に観たい舞台だった。


終演後は三軒茶屋で、美味しい焼き鳥と日本酒。Q