11/21 悪い芝居『駄々の塊です』

王子駅を降りたところで鈴木励滋さんに会う。さらに劇場に着いてみると、カトリヒデトシさん、日夏ユタカさん両氏もいて、かなり珍しく(たぶん初めて)、徳永京子さんを除くマンスリー・ブリコメンドの面々が同じ日に顔を合わせた。ので、ちょっとテンション高まる。



悪い芝居『駄々の塊です』@王子小劇場。京都を拠点にしている劇団で、観るのは『らぶドロッドロ人間』以来2回目。今回はロロ『夏も』に客演していた呉城久美が出てることもあったし、まあ平たく言えば関西で話題の劇団の実力ってなんぼのもんじゃいみたいな高慢な気持ちもありまして観に行ったわけで、つまりどちらかとゆうとあまり良い観客ではなかったかもしれません。

しかしかなり賛否両論を呼んだようだけれども、結論からゆうとわたしはとても面白いと感じて興奮したし楽しみました。また今度もぜひ観に行きたいと思うのです。たぶん次からは東京公演でも人気が出てお客さんもっと増えるんじゃないかなー。そんなに甘くはないだろうか。でもそんな感じはする。


さて、なんといっても最大の見所は、人力によって回転する舞台装置。これにより、人物たちの群像が様々なアングルで見せられると同時に、役者の出ハケも見事に演出されていた。舞台から降りたら役柄を失って待機するとゆう、ハイバイなどでお馴染みのルールが採用されていることにより、回転舞台装置は、フィクションを立ち上げる巨大な機械仕掛けのようにも見えた。

しかし何より素晴らしいのは、舞台を回転しながら役者が歩くことである。この移動感覚については、例えばジム・ジャームッシュの映画を並べてみるとよいのではないか。ジャームッシュの一連の映画においては、画面が横スクロールすると同時に人物が歩いていくわけだが、そのダンディズムのようなものが『駄々の塊です』にもあると思う。しかし映画は、舞台の幅や奥行きといった制約がないぶん、直線的な移動を表現するのには優れているけれども(どこまでも歩いていける!)、二次元のスクリーンであるがゆえに、今回のような回転移動には向いていないと思われる。そうした演劇ならではの装置を役者が歩いていくことにより、あまり見たことのない種類の移動感覚が表現されているのはとても面白かった。(ちなみに超余談ですが、ジャームッシュの魅力を最初にわたしに教えてくれたのは、この文章の冒頭に書いた鈴木励滋だったと記憶しています。)



そしてさらに大事なポイントは、その移動シーンが時として異次元的に描かれるとゆうことだ。回転速度のアップダウンや、照明や、音楽といった要素がその演出を可能にしている。これは例えば魔法少女まどか☆マギカの戦闘シーンを想起してみてはどうか。あのアニメでは、魔女の結界をコラージュによって表現し、その異世界の中を少女たちが歩いていく。そうしたダーク・ファンタジー的なまがまがしさも『駄々の塊です』にはあって、実にかっこよかったとわたしは思います。(少女たちが出てこないのであまり移動感覚が表れていないのですが、YouTubeで拾った魔女のシーンの動画を張っておきます。ここを歩いていると思ってくだされ。)




まどマギを思い浮かべたのは、演技のデフォルメぶりがアニメっぽいとゆうこともある。余談ながら、最近、演技方法としてアニメっぽいデフォルメを用いるケースが若い劇団のあいだでたまに見られるけれども(ロロとか、ロロとか、ロロとか……)、これは当然ながら新劇はもちろん、現代口語演劇のそれや、お笑いや、チェルフィッチュ以降と見なされるような身体表現の形式とも異なるわけで、そろそろこの種のデフォルメ的な演技方法についても一定の評価がきちんとなされたほうが皆のためではないかとわたしは思う。もちろん、元ネタとなるアニメやラノベの参照項といった「教養」は全然なくても問題ない。単にここで重要なのはそれが「アニメっぽい」ことなのであって、「元ネタがどのアニメなのか?」ではないのだから。そしてもはや、元ネタ、なるものを問えるような状態をはるかに超えて、様々なジャンルから寄せ集められた参照元のメルティングポットがあるだけだ、と考えるほかないのではないだろうか。その壺には例えば様々なフラグや、パーツや、紋切り型などが収められているわけだ。

話を『駄々の塊です』に戻そう。すべての演技が良かったわけではないけれども、例えば、お嬢さん役を演じていた人(ごめんなさい、パンフを無くしてしまったみたいで御名前が分からない……)の持っていた雰囲気は、言葉は適切ではないかもしれないがエロティックだった。わたしが思うに、少女の持つエロスとゆうのは、つまるところ本人が実際に持っているはずの能力(腕力、知恵、知識、容姿、社会的地位など)を超えた何かを身に纏うところに発生する。その点で彼女のキャラクターと舞台上での演技状態はとても魅惑的だったように思う。火傷を負った運転手役の男性(やはり御名前が分からず……)も、最初は失礼ながらあまり上手ではない感じがしたけれども、見ているうちにその「ひ弱さ」のようなものがかえって魅力的に映ってくるところもあった。「うほうほー!」と叫んでいた呉城久美は安定感とフレッシュネスがあり、まだまだ伸びしろがありそうだなあ、と思いました。

とかとか。

で、肝心の内容についても面白くて、「中途半端な町やなあ」と劇中で呟かれるように、中産階級的な、とりわけ貧しくもない、金持ちでもない、ただなんとなく終わりなく続いていく日常世界がある中で、そこからドロップアウトしたホームレスの存在と、彼らの恩人であり同時に搾取もしている金持ちの社長とを登場させること、また、動物たちの存在と人間社会とを対比させることで、複層的な世界に変えていく。これは例えば坂口恭平が、ホームレスの世界を別レイヤーとして示すことによって現実世界の見方に再構築を迫った手法にも一脈通じるけども、そもそも関西では、動物園とホームレスはやはり近しいイメージがあるのかもしれない(大阪天王寺界隈)。また、山の上の動物園の存在は、村上春樹的なイメージのトンネルを想像させるものがある。

そういった諸々を考えていくと、わたしが思うにですが、『駄々の塊です』で追求されたのは一本筋の通ったストーリーであるよりも、その設定やモチーフのほうなのだろうと思う。それはそれでいい、と思うのですが、ただ、例えば消えてしまった動物たちの存在や(これはラストに繋がる重要な設定のはず)、TSUTAYAのDVDに象徴されるような現実世界とそこからの逃避、といったモチーフをもっと丁寧に扱えば、さらにこの世界がもっと大きな広がりを持ったのではないかとゆう気はします。


思ったより長くなってしまったのでそろそろ終わります。もう、ここまで書くのだったらちゃんと劇評を書けば良かったと後悔し始めていますが(でも前作観てないしなあ……)、まあ、日記だからこそ書ける部分もあると信じてここまで来たら行けるところまで行って終わるだけです。

さて最後に言いたいこと。この『駄々の塊です』は、別の異世界をひらくための呪術であったのだと考えてみるのはどうだろうか。『駄々の塊です』はまぎれもなく演劇だが、いわゆるこれまでの「演劇」の土俵の上には必ずしも乗っていないようにも感じた。今はもう近代ではなく、もしかしたらポストモダンでさえないのかもしれない時代である。こうした時代を生きているのだ、といった実感は、おそらく若い(優れた)作り手のあいだではひろく共有されているのではないかとわたしは感じています。そこにおいては、演劇にかぎらず古今東西の様々なジャンルのものが表現のリソースとされてくるのは当然だし、アウトプットされる土俵ももはや単一のものではない。これからの表現者に求められるのは、既存の土俵の上に乗ってうまくやっていく能力だけではなく、土俵そのものからして作り上げていくような力であるとわたしは思う。「演劇」はたぶん、かなり自由である。「小説」が自由であるのと同じか、あるいはそれ以上に。


笑いのネタや過剰なツッコミ等については必ずしも面白いとは思えなかった。そこは東西の文化受容形式の違いも多少はあるのかもしれないし、別に東京ナイズされる必要は全然ないと思うけども、東京的な洗練のされ方からすると、少し古くさく見えるような部分もあったのかもしれない(アングラ、と評されたりしているのはそうゆうところなのかな?)。

あと、最初のほうの声が聞こえなかったのは、わざとなのかどうか。全体の構成から考えるとあの時点では聞こえる必要があまりないので、聞こえなくて全然構わないとわたしは思うけど、それが演出上の作為なのか、単に発声方法や音楽の音量との兼ね合いがよろしくないのかは判別できなかった。そもそも、関西弁である時点で、関東圏の観客には馴染みがなく、チューニングを合わせるのが少々大変ではある。しかし、それは逆に彼らの武器であるとも言えて、異質なものは、やっぱり魅力的でもあるのだ。


終演後は、ブリコメンドのメンバーで山田屋に飲みに行って大いに話に花が咲き、安いのを良いことに少々飲み過ぎました……。反省。Q