11/28 火吹山状態

ほんとうはお尻に火が付いちゃってる状況で、柿喰う客も田上パルも観に行けなかったわけですが、夜は池袋あうるすぽっと青山真治演出の『おやすみ、かあさん』。客層がわりかしシニアな雰囲気だったのはどうしてだろう? あとやはり、映画関係者の姿も多数見かけた。ひさびさに会ったKさんにご挨拶したら、「あ、こちら、彼女です」と女性を紹介されてなんだか驚きました。


(以下、特に門外不出のネタバレはしてないと思いますが、もしすでに『おやすみ、かあさん』を観に行くことを決めてる人がいたとしたら、その後でお読みになられたほうがよいと思います。舞台を観る楽しみや喜びを増幅する感じのエントリーではないので。)


肝心の観劇については、疲れもあったせいか、前半はうつらうつらとしてしまった。が、途中から、なるほどこれはつまり、ノーカットで長回しの映画のようなことをやろうとしているのかな、と思ってからはスリリングに見えてきた。しかし佐々木(敦)さんがツイッターに書いていたように、これはかなり、ストイックな演出だと思う。正直、好みとしていえば、白石加代子の放つお茶目さに対して、娘役の中嶋朋子の演技は少しマジメすぎるように見えてしまう。加えて、「自殺願望のある女」を演じるにしては、彼女は美しすぎるのではないか。果たして、美しすぎる女性は絶望を身にまとえるだろうか? ……いや、もちろん、まとえる、のだろうけれども、絶望を呼び寄せてしまった女性は、あのようには立っていられないのではないか、もっとどこか破綻しているものではないかと思えてしまった。

それからこの戯曲はマーシャ・ノーマンの手によるものだが、アメリカ特有の手つき(もしかするとある特定の世代にかぎられたことかもしれないけども、現時点でのわたしの知識ではそこを腑分けする能力はない)を感じてしまって、なかなか入り込めなかった。アメリカ文学が好きな人にはグッと来るやりとりなのかもしれないけども、わたしはどうも、この種の無駄話(を芸術として鑑賞すること)があまり好きではないのだ。だったら沈黙すればいい、と思うところでも、彼女たちは沈黙しないでひっきりなしに何かを喋り続ける。例えばこの戯曲を大胆に削除したり、ある部分だけを突出させるような演出も不可能ではなかったはずだが、青山真治はむしろ無駄にも思える会話をひたすら続けさせて、重要な部分さえもその流れの中に埋没させることを選んだのかもしれない。確かにこの演出方針は観客層を考えると正解だったのかもしれないし(隣のおじいさんは鼾をかいて寝ていたけども、逆隣の女性は拍手喝采だった)、実際にこの膨大な台詞を白石・中嶋の2人が演じきったのは相当なレベル&ハードルを超えているのだと思う。だけど現在、未だ若者(若僧)である身としての切迫感から言えば、やはりちょっとこの戯曲の迂遠な会話は、いかにも回りくどく感じられてしまうのでした。誤解のないように書き添えると、短ければよい、とゆうことではなくて。むしろこの長さには意味はあると思う。

付け加えるならば、少し前に美術批評家の椹木野衣がツイートしていた、詩と小説の違い、のことを思い出したりもする。すべてではないのだが、ある種の小説は、たしかに迂遠である。これは数年前に石川忠司が『現代小説のレッスン』で書いていた、小説の「かったるさ」にも関係することだとわたしは思うし、幾つかの小説がその「かったるさの消去」を試みてきたように、例えば近年の若手劇団(の一部)は、かつて石川が言った意味での「かったるさの消去」を舞台芸術において実現しようと試みているようにも思える。ただ、こうしたカットが、単なる堪え性のなさ、であったとしたらそれは単純に稚拙だか幼稚だかにすぎないし、いうなればエロティックでもなければ、タナトスに触れられるようなものでもないに違いない。その意味では、今作で青山真治が目指そうとしたのは「オトナの冗長さ」あるいは「成熟した冗長さ」を通して、より深遠なる世界をひらこうとしていたのではないか。とは思う。

(……ただ、やはりそこでわたしはまた、マームとジプシーのことを考えてしまうのだった。『Kと真夜中のほとりで』において、もっと短くできたはずのところで、しかし切らずにドカンと提示した2時間。あそこでもし10分短くしていれば、「かったるさ」や「冗長さ」はもっと消去されてスリムになったはずだが、それをしなかったからこそ生まれた重厚さがあの作品には確かにあった。その藤田貴大の手つきはもしかするとこの青山の「成熟した冗長さ」にも繋がるのかなとゆう感じがするけれども、どうだろうか?)

とにかく、この『おやすみ、かあさん』のノーカットの時間の流れの中で生まれていたグルーヴについては、今のわたし(たち)に受け入れられるかどうかは別にして、よく肝に銘じて記憶しておきたい。あと、美術が素敵だった。



本当は池袋で飲んでクールダウンしてから帰りたいと思いつつ、そんな場合じゃないのでとにかく地元駅まで帰り、うらぶれたいつもの食堂でごはんを食べる。でも、調子が出ない。すぐに仕事に取りかかれない。観劇生活の難しいところは、さて観劇が終わりました、では仕事に……といったふうにはなれないところで、やはり、それなりにズシンと後を引いてしまうとゆうことだった。脳内に、いや身体に、残っている様々なものたちに取り囲まれて、仕事への熱意や構えといったものを奪われてしまっている状態。ここから切り替えるのは大変なことなので、とにかくリカバリーするために一度寝るしかない、と思ったけれども、一方では身体が興奮していてなかなか眠れないのだった。今年、結構お酒を飲んでいるなあと思うのは、それだけ舞台を観ているから、とゆう理由も幾らかある。クールダウンが必要なのである。

それで眠れなくって、眠れなくって、マッコリでも飲もうかなあ、なんて思いながらiPadをいじっていたら、スティーブ・ジャクソンの懐かしのゲームブックシリーズがアプリになっていることを知り、つい『火吹山の魔法使い』を買ってしまう。とゆうか英語なので『The Warlock of Firetop Mountain』。250円なり。まあ、英語の勉強になるかな、と妙な言い訳をしてみたりとか。そんなことをしているうちに、催促のメールが来た。はい……。Q