マンスリー・ブリコメンド(2013年1月)

あけましておめでとうございます。マンスリー・ブリコメンド、1月です(コンセプトはこちら)。今年もマイペースでやっていきたいと思います。また今回からこれまでの月2回更新というシステムを変更しまして、随時アップしていく形にします。理想としては、1〜2ヶ月先までカレンダー的に少しずつ埋まっていくようなイメージです。更新した際にはツイッター(@pulfujiko)で告知します。よろしくお願いします。

なお公演名の色については、関東ローカルなものは「青」、関西ローカルなものは「ピンク」、それ以外の地域を含むものは「紫」で表記しています。Q


★メンバーのプロフィールはこちら。http://d.hatena.ne.jp/bricolaq/20120930/p1


今回のブリコメンド

藤原ちから/プルサーマル・フジコ twitter:@pulfujiko

■東京デスロック『東京ノート
■手塚夏子『私的解剖実験-6 〜虚像からの旅立ち〜』
■中野成樹+フランケンズ『ナカフラ演劇展』国内巡回
■マームとジプシー『あ、ストレンジャー
■サンプル+青年団『地下室』
■地点『コリオレイナス
飴屋法水演出 いわき総合高校2年生アトリエ公演『ブルーシート』

日夏ユタカ(ひなつ・ゆたか) twitter:@hinatsugurashi

■東京デスロック『東京ノート

鈴木励滋(すずき・れいじ) twitter:@suzurejio

■鈴木ユキオ『大人の絵本』

カトリヒデトシ twitter:@hide_KATORI

徳永京子(とくなが・きょうこ) twitter:@k_tokunaga

★ステージ・チョイス!(徳永京子オススメステージ情報)
http://www.next-choice.com/data/?p=11307


西尾孔志(にしお・ひろし) twitter:@nishiohiroshi

■カンパニーデラシネラ
『カルメン
■下鴨車窓『煙の塔』

落雅季子(おち・まきこ) twitter:@maki_co

■手塚夏子『私的解剖実験-6 〜虚像からの旅立ち〜』
■昨日の祝賀会『冬の短篇』
野鳩とナカゴー『ひとつになれた』

古賀菜々絵(こが・ななえ)

■第4回九州戯曲賞 大賞受賞作品リーディング公演『家出』/『憑依』2作品連続上演







東京デスロック『東京ノート

1月10日(木)〜20日(日)@こまばアゴラ劇場(神泉・渋谷)http://www.komaba-agora.com/line_up/2013/01/deathlock/

青年団による『東京ノート』の初演は1994年。教科書的な歴史によれば、バブル景気は86年12月から91年2月までの51ヶ月間とされていたりするので、すでにそのときにはバブルは完全に弾けていたわけだが、時代の体感としてはまだ、終わってはいなかった。街には浮かれ騒ぎはしゃぎつづけようとする空気が残り、小劇場の演劇も歌い踊り観客を笑わせることにひたすら注力をそそぎつづけていた、ようにも思う。そして『東京ノート』は、そんな時代に背をむけ、観客に尻をむけ、静かに反逆する、当時としてはじつはかなり尖った演劇だった。これが当たり前となった現在では信じられないかもしれないが、新しい演劇、だったのだ。もちろん、小津安二郎監督の映画『東京物語』(1953年制作)をモチーフとしているため、古き良き時代への郷愁を観客に感じさせはした。過去への憧憬の物語だと。けれど、その作品の本質は、同時代を冷徹に観察し記録し活写していたことだった。あるいは、“失われた10年”によって没落していく日本の未来への【予言】ですらあったかもしれない。そう。そこで描かれた近未来は、“いま”と驚くべきほど繋がっている。数少ない相違点は、たとえば、戦争がおこってよかったのはフェルメールの絵画がヨーロッパから疎開してきて東京で簡単に観られることだ、と劇中で語られていた作品たちが、国内で頻繁に観られるようになったことぐらいではないか。反対に、美術館のロビーで描かれる、海のむこうの戦争への無関心や興味の低さは、そのまま原発への思考停止を想起させ、あまりに現在と重なりすぎるのである。それゆえ、東京デスロックによる『東京ノート』もまた、戯曲にそうやってしっかりと記されている、滅びにむかって傾きつつある日本/世界と、そのなかで漂う日本人の日常を描くことになるのだろう。おおくの人たちが直視することを避けているようにも思える、いまの日本や東京の姿を。ただし、写実的に世界を捉え舞台にのせる青年団平田オリザに対して、東京デスロックの多田淳之介は、おそらく、さらなる未来をみせてくれそうな気がする。あたかもプロレスのように、どんなに傷つき倒れても、けして諦めず気高く立ちあがりつづける、日本や東京の、未来の姿を。だれかに語り広めたくなるような、夢を。(ひなつ)

「ふだん演劇あんまり観ないんですけど次は何がオススメですか?」と訊かれることはよくあるのだけれど、ここ1、2ヶ月は迷うことなく「東京デスロックの『東京ノート』!」と答えてきた。
いや本当に観てほしい。
「脱東京宣言」以来4年ぶりの東京復帰本公演。現代口語演劇のスタンダードといってもいい『東京ノート』をどう料理するのか、その形式上/方法論上の更新にも興味はあるけども、やっぱりそれ以上に「今この戯曲を上演すること」の意味が(好むと好まざるとに関わらず)問われてしまうであろう状況下。予測不可能なワクワクと恐怖とがある。
やや私的な話をすると、昨秋、20年以上住みつづけてきた東京を離れて横浜に引っ越した。わずかながら距離を置いたことで、「東京」に対して冷ややかな目線が生まれているのは感じる。果たしてこの斜陽の大都市はかつての栄華を取り戻せるのか? それとも「取り戻す」とかではない別の形での再生は可能なんだろうか? 知ったこっちゃないわと対岸の火事を眺めるフリをしながらも、やっぱりその行く末は気になっている。とはいえ「東京」は異様な場所だし、おそらくは、そうありつづけることでしかみずからを保持できない都市なのだろう……。
東京ノート』、全公演・前売り完売したけれど、追加公演も決定したようです。もしくは当日券を狙ってください。なお会場ロビーでは東京復帰記念の冊子「拠点日本」も販売されるそうです(限定200部)。
また、この公演に至るまでの4年間の東京デスロックについて知りたいという方は、「ぴあ+」での多田淳之介インタビューをどうぞ。(フジコ)
http://pia.cloudapp.net/index.aspx?u=pia&fid=12122802062&bkurl=http%3A%2F%2Fcinema.pia.co.jp%2Fweekly%2F




第4回九州戯曲賞 大賞受賞作品リーディング公演『家出』/『憑依』2作品連続上演

【福岡】1月11日(金)@大野城まどかぴあ(福岡・春日原http://www.madokapia.or.jp/events/detail/41

『九州戯曲賞』というものがある。九州に拠点を置いて活動する劇作家の優れた作品を顕彰する目的で、2009年に創設された賞だ。昨年で4度目となる本賞では、受賞作を2作品選出した。大賞を受賞した作品はその後リーディング公演という形で観客に披露される。しかし基本的にはこの上演のみで、九州戯曲賞というものは冊子にもならなければ、主催者がメディア媒体に露出させることも無いのである。もちろん、受賞作を個別の機会に上演することはあるが、歴代の受賞者の中には必ずしも定期的に公演活動を行っているとは限らない作家もいる。九州を代表する戯曲賞の受賞作は、お披露目のリーディング公演を逃したらあとはどのようにして触れるのかちょっと難しい作品になってしまうことも容易にあるのだ。まぁ、この一期一会の感じは演劇自体にもともとある傾向だし、まして地方都市の戯曲賞ともなると、細かい単位の賞であれば触れる機会に乏しいのも普通なのかもしれない。しかし九州戯曲賞は、九州を一つのくくりとして公募・選出した賞である。なんだか勿体無い気がする。かつてこの賞の大賞や最終候補に名を連ねた作家の中には、09年に近松賞の最終選考にまで駒を進めた森馨由さんや、記憶に新しい昨年末の劇作家協会新人戯曲賞の最終選考に残った宮園瑠衣子さんもいる。ここに並ぶ作品はもっと色んな人の目に触れられてもよさそうなものが、混沌と渦巻いているのではないかと想像してしまったりするのだ。そんな背景もあり、第4回九州戯曲賞の大賞に輝いた2作品『家出』(作:谷岡紗智)と『憑依』(作:川津羊太郎)も、見たいという欲求に駆り立てられるっ!!
ただ、諸手を挙げて上演を楽しみにすることが出来ないのも・・・事実だ。懸念材料も垣間見える。歴史も浅く、まだ思考錯誤のシステムの上にある戯曲賞とその上演ということもあり、劇団の公演とも異なるため、なぜこの演出家が?俳優が?なんてことも、観に行ってみて起こらないとも言えない。また、リーディング公演は戯曲の紹介としてはアカデミックな形態だけれど、上演を手掛ける側の腕が最も必要とされるものでもある。とりわけ、九州では長いこと北九州芸術劇場が、最近では宮崎県立芸術劇場も力を入れて作り、それを見てきている観客も少なくはない。観客や作り手の中には、一歩間違えばつまらない上演となることを知っていたり者も少なくないはずだ。
ここからは、システムに対する個人的な願望と希望的観測になるが、貴重な上演機会を手掛けるアーティストの人選にも、一層工夫を施すことで、いち地方の戯曲賞が色んな機会を派生させることも出来るのではないだろうか。例えば、上演を手掛ける演出家等も公募するとか、その公募は受賞者も交えて選考するとかetc…。言うは易しだが、そのような展開を様々に試行することで、九州を代表する戯曲賞が一層良い機能を果たしうる、そういうものを様々に期待したい。これまでも幾つかの試みはあっただろうが、贅沢を望みたい。
なんだかブリコメンドしながら変な話にそれていってしまったが、お勧めだけれど、観てみないと真にお薦めとは言えない作品だ。…というのはブリコメンドの本質としてもあるものだけれど。因みに九州戯曲賞の選評はこちら。(http://www.krtc.info/wp-content/uploads/2012/08/senpyo41.pdf)ご興味あれば覗いてみてください。(古賀)



手塚夏子『私的解剖実験-6 〜虚像からの旅立ち〜』

【福岡公演】2012年12月22日(土)〜23日(日)@ art space tetra(西鉄天神、博多)
【横浜公演】2013 年1月13日(日)〜14日(月・祝)@STスポット(横浜)
【神戸公演】2013年2月3日(日)〜4日(月)@ ArtTheater dB KOBE (新長田)

http://natsukote-info.blogspot.jp/

優れたダンサーは、その姿と眼差しだけで観る者に何かを問うてくる。踊っているときもそうでないときにも、自らに膨大な思考を科し続けているのがわかるからだ。手塚夏子の踊る姿には、そういう風圧みたいなものがある。問い続け、考え抜く時間を重ねた奥行きのある“現在”が、彼女の身体には表出している。こちら、福岡公演がすでに昨年末に行われていて、これから横浜と神戸で公演があります。出演は捩子ぴじんさん、かもめマシーン主宰の萩原雄太さんなど。
ちなみに横浜公演会場となるSTスポットは、昨年の開館25周年関連イベントを終えて、一区切りしたところのようです。館長の大平さんは、国際舞台芸術ミーティングTPAM(http://www.tpam.or.jp/)でショーイングのディレクションをなさるようなので、ご興味持たれた方は今からぜひ、2月の予定を組んでみてはいかがでしょう。(落)

舞台芸術の世界には、ごく稀に、なんらかの〈種子〉を運ぶようにして創作活動を続けている人物がいる。手塚夏子はまさにそうした人であり、〈媒介者〉として様々な実験を試み、身体がもちうる可能性を探ってきた。ここ数年は「近代」に関心を持ち、国家という単位によって諸々の線引きがほどこされる以前の、それぞれの土地に息づいてきた〈脈〉を手探りで掘り当てていくような作業を行ってきた。例えば伴戸千雅子による以下のインタビューで、その試行の一端を知ることができる。(奥三河での花祭りの稽古についてのくだりは、宮本常一の『忘れられた日本人』に記述されていた、あの対馬の、線引きされない時間のあり方を思わせる。)
http://www.danceplusmag.com/c1/10013

インタビューの中で手塚は「内発性」という言葉を使っており、赤ん坊をその喩えとして用いているけれど、何度か手塚夏子の実験を体験してきた感触をふまえて思うには、これは純粋無垢なありのままの状態というよりも、外的な世界のシステムや線引きの影響を受けない(あるいは、時に拮抗しうる)ような「自律したリズム」を指しているのではないだろうか。
「内発性が世界の中にほとばしるという状況」という手塚の言葉は魅力的だと思う。芸術にできること、救えることは、ごくわずかでしかないかもしれないけれども、そこで蒔かれた〈種子〉が予期せぬ形で人々に伝播し、思わぬところで芽吹く可能性を信じてみたい。
ところで今回はフィールドワークにおいて、動物の糞の匂いを嗅いだりもしているみたいです。なぜ……?(フジコ)



中野成樹+フランケンズ『ナカフラ演劇展』国内巡回

【京都大阪特別講義】1月16日(水)〜18日(金)@近畿大学京都造形芸術大学龍谷大学
http://frankens.net/?p=554
【大阪公演】1月20日(日)@カフェスロー大阪(十三)http://frankens.net/?p=571
【福岡公演】1月24日(木)〜27日(日)ぽんプラザホール(博多、祇園ほか)http://frankens.net/?p=565

大変だ! あのナカフラ演劇展が巡回しています。12月のブリコメンドでも紹介しましたが、いやこんなに演劇の魅力がコンパクトに詰められていて、それでいて豊かにひろがるような、甘いお菓子(だがちょっとほろ苦いうえに毒入ってる!)にお目にかかれる機会は滅多にないので、ぜひ関西、そして福岡のみなさまにおかれましてはお見逃しなきように。
ナカフラによる古典戯曲の誤意訳(大胆な換骨奪胎による現代演劇への移植)は、ほとんど最古といってもいい芸術である演劇の魅力と、何十年も何百年も繰り返されてきた人間の業の深さのようなものを思い起こさせてくれる。
家族や恋人と一緒でも楽しめるようなエンターテインメント性を持ちながら、これから何かをつくりだそうとする人にとっても刺激的なヒントを与えてくれるようなトンガリを併せ持った作品群。とにかくたくさんの人に観てほしいと心から願います。
なお16日の近畿大学、18日の龍谷大学公演は下記リンクから申し込みが必要です。(17日の京都造形芸術大学講演は一般入場不可)(フジコ)
http://frankens.net/?page_id=138




昨日の祝賀会『冬の短篇』

1月17日(木)〜1月20日(日)@座・高円寺1(高円寺)http://www.shukugakai.com/

「昨日の祝賀会」というカンパニー名称が、とても素敵だなあと思っています。終わってしまったパーティ。後の祭り。どこかさみしくて切ない匂いのする名の下に紡がれる物語は、大人の狡さやどうしようもなさ、そして、それを許せてしまうような茶目っ気にあふれています。今作は短篇集とのことで、もともと公演の後にアフタートークならぬアフターコントをやったりしていた団体だけに期待値もひとしお。もちろん俳優陣も手練揃いですが、今回は祝賀会メンバーのほかに、作家陣として城山羊の会の山内ケンジさん、ハイバイの岩井秀人さん+平原テツさんが参加されてます! とても豪華なのに、品よくまとまってくれそうな予感がするのは、自分の内にある毒っぽささえチャーミングに見せる術を知っている作家たちだからでしょうか。昨日の祝賀会HPには“成人映画の成人よりも成人病の成人に近いような「成人演劇」”と書いてあります。でも、いつだって身体に悪いものほどうまくてやめられないものだし、その楽しみ方を知っているのが大人というものですよね、なんてね。(落)




野鳩とナカゴー『ひとつになれた』

1月17日(木)〜1月22日(火)@下北沢OFF・OFFシアター(下北沢)http://www.nobato.net/
http://nakagoo.com/top.htm

帰ってきた野鳩。何とも感慨深いです。彼らが活動していたのは2001年から2007年。あのころの小劇場は極彩色のあめ玉のようにどぎつくて、ドラマもポストドラマも隔てなく、それでいて全てがあるとも言えるエンターテイメントのごった煮だったと私は思う。80年代のような狂騒的な空気はないけれど、キャラクターの濃い劇団が群雄割拠して発破を仕掛けてくるような日々だった。野鳩と言えば、のどかな風景の書割りと紙でできた学芸会小道具みたいな草むらが置いてあるような舞台に、漫画チックにデフォルメされた登場人物の仕草が思い出されます。今回は、野鳩を観て演劇をやろうと思ったというナカゴーの鎌田順也さんが脚本、野鳩の水谷圭一さんが演出で、俳優陣も両団体のメンバーオールスターです。
一口に小劇場演劇と言っても、舞台上を駆け回り台詞を群唱するものから写実的なシーンが淡々と続く静かな演劇、ダンスとの境界がほとんどない作品、演出手法そのものがある種のドラマを構築する作品まで、年代によっていろんなものが生まれて消えてきた。そんな中で、2013年の今は演劇のエンターテイメント性を追求していくことが評価されにくい時代になっているんじゃないかと感じる。「すごく楽しくて面白い」というだけでは価値になりづらいのだ。誰にとっての価値か、という問題は常について回るけれど「楽しさ」についても頭を使わなければいけないとか、楽しむことで虚無的な気持ちになるというような付加価値が求められているといってもいい。だから今、帰ってきた野鳩が何を自分たちの演劇として見せてくれるのかすごく期待してしまう。でも、私の勝手な期待にかかわらず、ナカゴーと合体した野鳩はかつて以上に楽しさとばかばかしさに溢れているだろうし、私が今長々と書いたことも「それ考えすぎだよ」って笑い飛ばすようなエネルギーをくれる気がしているのも事実だ。ちなみにナカゴーのロゴマーク(※HP参照)を見るたびに藤子不二雄の漫画っぽいと思っていたけど、これってもしかして野鳩の漫画っぽさへのオマージュだったのだろうか?(落)



マームとジプシー『あ、ストレンジャー

【東京公演】1月18日(金)〜27日(日)@吉祥寺シアター(吉祥寺)
【いわき公演】2月1日(金)・3日(日)@いわき芸術文化交流館アリオス小劇場(いわき)
【横浜公演】2月9日(土)〜12日(火)@のげシャーレ(桜木町日ノ出町

http://mum-gypsy.com/next/12.php

『あ、ストレンジャー』はアルベール・カミュの『異邦人』を原案として、2011年4月に清澄白河の小さなギャラリーSNACで初演された。初演時は45分ほどの小作品だったけれど、今回はキャストに石井亮介が加わって5人編成となり、さらには大谷能生の音楽も挿入されるなど、80分を超えるフルスケールの作品として生まれ変わるらしい。おそらく初演とはまったく異なる作品に化けていくに違いない。
……ということを前提とした上で、初演について語ると、『あ、ストレンジャー』はマームとジプシーの中では圧倒的に「体温の低い」作品だった。もちろんそれは原作の主人公ムルソーの持っていた虚無的な態度の影響もあるだろうけども、とはいえ藤田貴大は原作のトーンに引っ張られることなく独自の世界を創出してみせた。おそらくそれは『異邦人』という小説の中にさらりとまぶされていた「全くの日曜日」というフレーズに異様にこだわった結果として生まれてきた世界である。

 彼らが過ぎると、通りは次第に寂しくなった。思うに、どこの見世物小屋も開いたのだろう。もう通りには店番と猫しかいなかった。通りを縁どる無花果の木の上に、空は、澄んでいたが、きらめきを欠いていた。正面の歩道に、煙草売りが椅子を出し、戸口の前にすえた。両腕をその背にのせて、椅子にまたがった。今しがた満員だった電車は、ほとんど空になった。煙草屋のそばの小さなキャフェー「ピエロ軒」では、給仕が人気のない広間で鋸屑を掃いていた。全くの日曜日だった。(……)五時に、音たてて電車が着いた。(……)日は、なお少し傾いた。(……)街灯がこのとき突然にともり、夜のなかに上った、最初の星々を青ざめさせた。(……)日曜日もやれやれ終わった。ママンはもう埋められてしまった。また私は勤めにかえるだろう、結局、何も変わったことはなかったのだ、と私は考えた。(カミュ『異邦人』窪田啓作訳、新潮文庫

なるほどあらためて『異邦人』を読んでみると、その前半部におけるこの土曜、日曜の「二日間の休暇」はみずみずしい鮮烈な印象を放っている。この街の記述、そしてカミュの原作において極めて重要な役割を果たした「太陽」は、マームとジプシーに「時計」という新たな装置をもたらすことになった。マームの時計、つまりある時刻の宣告(ex.午前1時、午後2時)は、同じ時間を何度も繰り返し召喚することによるパラフレーズを可能にすると同時に、昼や夜といった時間感覚をも呼び起こしていった。昼は、たとえどんなに明るくても、その背後に夜を隠している(あるいは、待っている)。藤田がヒュプノス(眠り)やタナトス(死)といったギリシャ神話の神々の名前を口にし始めたのも、確かこの時期からだったと記憶している。作中に「死」の気配が色濃く漂い始めたのもこの頃からだった。
この作品が2011年の4月に上演されたことは、やはり特別な意味を持ってしまった。「ユリイカ」1月号の小劇場特集に椹木野衣が書いているように、上演中に大きな地震が起きるなど緊迫した状況下で行われた公演でもあり、観ている観客の心中は、とても観劇を気楽に楽しめるような状態ではなかったはずだ。あの時は皆、何かしらの傷を抱えてSNACまで辿り着いたのではなかったか。東京はお通夜のように暗かった。
果たして公演が成立するのかどうか危ぶまれるような状況下で、今回も登板する4人の役者たち(青柳いづみ、荻原綾、尾野島慎太朗、高山玲子)の身体には、それまでのマームにはなかったような、生きながらにして死んでいるような状態が漂っていた。いうなればリビングデッド。最初に述べた「体温が低い」というのは、まさにこのような状態を指している。登場人物たちはみな、醒めた佇まいで、黙々と演劇を遂行した。だが、とてつもない感情を抱えていたのだ。
あれから2年近く。再び還ってくるこの作品には、いやおうなしにあの時期の記憶が埋め込まれているけれど、今回初めて『あ、ストレンジャー』を観る人たちもまた、この作品を何かしらの形で記憶するだろうし、あるいはこの作品自体に何がしかの記憶を埋め込んでいくことになる。観る、とはたぶん、そういうことでもあるのだ。今回は3箇所(吉祥寺、いわき、横浜)だけれども、マームとジプシーのレパートリー作品として、今後も様々な土地で上演されてほしい。(フジコ)

【付記】今から語ることはまったくの過去であり通過点にすぎないといえばそうなのだが、これからもゆるやかに変化していくであろう藤田貴大とマームとジプシーに関しての貴重な資料になるかもしれないので、この上演の前後の経緯等について、すでに曖昧になりつつある当時の記憶をたぐりよせつつ書き残しておきたい。あくまで記録を第一目的としているので、初めてマームとジプシーを観る人には不向きな内容だし、読む必要もないと思います。実際に『あ、ストレンジャー』を観てみて、彼らの存在が気になったとか、もっと知りたくなったという場合に読んでいただけたらと。読み飛ばせるように文字色は変えておきます。コピペするなりして読んでください。

(ここから)
記憶では確か西巣鴨から板橋まで歩く道の途中で(ということは2010年秋の『ハロースクール、バイバイ』に向けた稽古の時だったと思う)、藤田君が「古典を原案にしてみたい」と言ったのが始まりだった。相談を受けたというほどのことでもなく単なる会話として。それでなんとなくカミュの『異邦人』(1942年)は面白そうじゃない?という話が出た。その動機としてはまず単純に「きょう、ママンが死んだ、もしかすると、昨日かも知れないが、私にはわからない」(旧訳版)から始まるかの有名な冒頭の文章をマームでやって欲しい、もっといえば青柳いづみに読んで欲しいと思ったこと。それにもしかすると、その当時すでにマームが何度か描いていた「海」のイメージが『異邦人』を呼び寄せたのかもしれなかった。
ムルソーという虚無的な主人公は「太陽のせいで」殺人を犯してしまう。彼はその理由や経緯をうまく説明することができず、周囲から様々な意味や理屈を貼り付けられて社会的に追い詰められていく……。『異邦人』はそんな物語だが、ここで描かれる「不条理」には、後の「カミュサルトル論争」(1952年)にも繋がるようなカミュの文学的態度の原型がある気がする。つまり、アンガージュマン(政治参加)による「革命」を主張した後期サルトルに比べて、カミュはあくまでも個人の「反抗」を頼りにしていた。別の言い方をすると、「芸術」が安易に「政治」的なお題目に回収されてしまうことに対して、違和感と危機感を持っていた作家だと思う。
藤田の中にもこのカミュ的な精神はあったと感じる。『しゃぼんのころ』や『ハロースクール、バイバイ』(いずれも2010年)には家出する少女たちが登場していた。マームとジプシーが一時期ひたすらコドモを描く作品を創作し続けていたのは、オトナがつくりだした不条理な世界に対する、言葉を持たない無力なコドモたちによる違和表明の狼煙でもあった。彼らの描き出す繊細な世界は、単にナイーヴに自意識の世界に籠もるようなひ弱なものではなかったし、単に情緒的に共感を誘うだけの泣けるお芝居でもなかったのだ。例えば『コドモもももも、森んなか』では、まさに不条理な世界に置き捨てられた少女たちが主人公であったのだが、次女の初潮によって流れる生理の血も、単に男性から見た理想の少女像の投影なんかではなく、望むと望まざるとに関わらずやってきてしまう回避不可能な現象であり、と同時に、行ってしまってはいけない世界への扉としても機能していた(ex.神社の境内)。この半分オトナに足を踏み入れつつある次女が、少々いかがわしい夜の街で働く母を捜しにいくシーンでは、彼女はまったく途方に暮れてしまうことになる。肝心の母は舞台には姿を現さないのだが、オトナの世界でたくましく生きていこうとするその不在の母の姿を幻視させられる瞬間だった。すべては危うい状態の上に成り立っていた。ガラス細工のように繊細……だからではない。むしろタフな世界に取り囲まれているからこそ、危ういのである。
つまり藤田の描く世界はノスタルジックなユートピアではなく、むしろ常に「居心地の悪さ」によって支えられてきたのだ。安全に守られているはずのコドモたちの世界の内部にも、そこかしこに対立や葛藤が渦巻いている。公園、団地、学校、といった場所から出ていけないコドモたちの世界は、確かに狭いスモールワールドにすぎない。だが藤田は決してこの小さな世界を全肯定して美化しているわけではなかった。だからこそ少女たちは家出をするのだ。
だがその先には海がそびえたっている。マームにおいては繰り返し海、川、湖といった「水辺」が描かれてきたが、水は何かを流し去り、連れ去っていくという意味では、確かに喪失とロマンティシズムの象徴でもある。だが同時にそれらは、彼らの歩行を不可能にするどんづまりの場所でもあった。これはかつてヌーヴェルバーグの映画作家たちが好んで描いた「海」の感覚にも近いところがあるように感じる。トリュフォーの『大人は判ってくれない』のラストで少年が佇む海、ゴダールの『気狂いピエロ』で大爆破のあと溶けていくあの「永遠」を象徴する水平線の海。そして今年藤田が演出する予定の、今日マチ子が描く『cocoon』の沖縄の海とも繋がっているように思える。マームの登場人物たちの移動の旅は、この海においてぶっつりと切断されてしまう。夢や希望やロマンはそこでぶった切られてしまうのだ。
だがそれは終わりであると同時に始まりを告げる場所でもある。登場人物たちの眼前に立ちはだかる障壁である海は、つねにその外部の世界に誘おうとする「誘惑の海」でもある。そして実際に彼らはその外部へと旅立っていく。
では『あ、ストレンジャー』の海はどうだろうか? この海にはある秘密が隠されている。初演時は45分という短さもあり、この秘密はあくまでもそれとなく示唆されただけで、その全貌は観る者の想像に委ねられていた。それで充分だったとも思う。ただこの秘密が、あるアイテムを媒介として、狂気と繋がっていたことは重要だ。
原作カミュの『異邦人』における海は、恋人との官能的な時を過ごした場所であり、忌まわしい殺害現場でもあった。官能と死の海。このイメージは『あ、ストレンジャー』にも継承されている。しかしそこに、震災以後の海のイメージもまたやはり混入していないはずはない。与えるものであり、奪うものでもある海。たぶん人間は、この海を完全に掌握したり、あるいはこれと訣別することはできないのだろう。危険な二面性を持った海と共存していくほかない。海を描くかぎり、藤田はこのアンビヴァレンツと対峙しつづけることになる。

2011年3月、あの地震の直後、『あ、ストレンジャー』の稽古に取り組んでいた彼らに対して、わたしは、避難してはどうかという提案をしたことがある。放射能の影響がまだよくわかっていなかったし(実際には今も本当のところはわからない)、リスクを冒してまで上演する必要があるのかどうか疑問だった。演劇よりも生命が大事だろうと思った。西のほうにあるわたしの実家で稽古を継続できないか、ということも考えた。とはいえある時、確か横浜・急な坂スタジオの和室での稽古を見学しに行って、彼らの(この文章の最初に述べたような)リビングデッド的な身体を見た時に、ああ、苦しいだろうけどもこれはぜひ上演してほしいな、とも思ったのだった。今自分が見たいもの、欲しているものは、この身体に他ならないと強く感じた。そして実際、上演は素晴らしい唯一無二のものになった。
ただしこの『あ、ストレンジャー』での手応えと成功が、彼らの歩みの速度を早めていったことも否めない。続く三部作『かえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと、しおふる世界。』は異様な熱気を帯びた作品群であり、この流れは『Kと真夜中のほとりで』にも続いた。それは早熟の天才児と見なされていた藤田貴大が、化け物に変身していくプロセスでもあった。そしてそれだけの演劇的成果と、その努力に見合うだけの勲章も得ることになった。翌2012年の作品群もまた、この変身の延長線上に位置づけられるものであり、さらに様々な挑戦と成果があった。
とはいえ今、めぐりめぐって、またあらためて『あ、ストレンジャー』が上演されることは、何かあの初演から始まった異様な時間の流れ(あえていうなら、呪い)を、ここらで一度、断ち切ることになるのではないかという気もしている。どうするかは藤田貴大自身が選ぶ(あるいは選んでしまう)ことであり、外野であるわたしの関知するところではないのだが、呪いをかけられていたのはわたしも含めた周囲の人間も同じだろう。とにかくこの数年を眺めてきた傍観者のひとりとして思うのは、ここらでひとつ時空が切断され、あるいはねじ曲がってもいいのではないかということ。いや、その転換はもうすでに始まっているのかもしれない。これは(今のところ)別に書こうと思っているのだが、マームとジプシーと藤田貴大の本当の恐ろしさは、リフレインを基調とするその方法論の更新ではなく、もっと別のところ(特に新しくもないところ)にあると感じるからだ。それは『塩ふる世界。』や『Kと真夜中のほとりで』以降に生まれた時間感覚のことなのだが……。ともかく『あ、ストレンジャー』の今回の生まれ変わりの再演が、彼らをある種の呪縛から解き放つような転換点になるのではないか、という期待はちょっとある。(フジコ)




カンパニーデラシネラ
『カルメン

1月24日(木)〜27日(日)@神戸アートビレッジセンター(神戸・新開地)http://kavc-carmen.blogspot.jp/

日雇い労働者の町・新開地で、神戸のアートや映画や演劇などのオルタナティブな部分を一手に引き受けている施設、それが神戸アートビレッジセンター、通称KAVC(カブック)である。そのKAVCが今回プロデュースするのは、パントマイミスト小野寺修二率いるカンパニーデラシネラの『カルメン』。僕はこの劇団は初見だが、マイムと台詞を融合させた舞台に片桐はいりやKIKIKIKIKIKIのきたまり、ヨーロッパ企画の中川晴樹が参加していると聞いて興味が湧いた。しかも一つのホールで背中合わせに『カルメン』を巡る2つの作品を同時上演し、観客は当日どちらかのステージを選ばなければならないのだという。一体どうなっているのか。ひょっとしたら凄く嫌いなタイプの舞台かも知れないけれど(笑)、それでもこの目で確かめたい。いや、きっと好きだろう、と思う。(西尾)




サンプル+青年団『地下室』

1月24日(木)〜2月3日(日)@こまばアゴラ劇場http://samplenet.org/

サンプルという劇団は、わたしの中の奥の奥の奥のほうに眠れる妄想力とイメージとを刺激してくれる貴重な存在なので、これはぜひブリコメンドしなくては……とか思ってるうちに不覚にも初日が開いてしまった。この『地下室』はおよそ7年前に書かれた作品で、その戯曲が、劇団が刊行する雑誌「サンプル」創刊号に載っていたので読もうかなあと思いつつも、やっぱり今回の再演を観るまで読まないことにした。初演も観てない。ので、どんな話かは知りません。嘘です。ちょっとだけ設定とか知ってます。水とか、地下室とか、健康食品とか、男とか、女とか、出てくるみたいです。とりあえずかなり面白そうだなと感じています。
サンプル主宰・松井周の描く世界は、どれもこれもいびつであり、抽象的だが同時に構造的、かつ生態的で、つまりはえっと、なんだか「的」を並べてしまいましたが、要するに冷たく観察しているような眼差しと、どろりとした体液っぽい触感とを感じさせるものだった。そして登場する人間たちはどことなくチャーミングである。ふつうこういうのは「世界観」と呼ばれるし、そしてふつう「世界観」は「ファン」をつくるものだが、こないだ誰かが、そういえばサンプルのファンっているんですかねえ、なんか私も好きだけど、ファン、って感じじゃないんですよねー松井さんの描く世界って。とか言っていて、ああ言われてみればそうかもしれないと思った。松井周はあれだけの(マニアックな?)人気者にも関わらず、カリスマスターとファン、みたいな関係性はそこにはほとんどなくて、えっとこんなのつくっちゃったんですけど、どうですかねえ、気持ち悪いですか、ええ僕もそう思うんですけどねえ、よく分からないところがありますよねえ、みたいな、そういうコミュニケーションが生まれているような気も、しなくはない。実際このたびサンプルは、いわゆるファンクラブとは異なる「サンプル・クラブ」を新設し、観客との新しい関係を模索しているようでもあるので、気になる人はぜひウェブサイトをチェックしてみてください。
ところで今回はサンプルと青年団との合同公演という形式。個人的には、青年団山内健司さんのサンプル初登場が楽しみなのです。(フジコ)




鈴木ユキオ『大人の絵本』

1部 鈴木ユキオ+金魚「断片・微分の堆積」 2部「即興絵本」
1月25日(金)〜28日(月)@象の鼻テラス(日本大通り

http://boat.zero.ad.jp/Bulldog-extract/test1.html

「ダンスの観方がわからない」というのはよく聞くが、いつもなんと応じたものだろうと頭を悩ます。
で、「考えるのではなく、感じればいいのでは?」と伝説の男みたいなこと言って濁してしまう。
まぁ、それぞれが自由に感じれば良いというのは間違いないが、それでも人はなかなか自由になれないものであるのも事実だ。
学校教育での創作ダンスの弊害だと思うが、ダンスというものは必ずテーマがあり、「風」とか「海」とかを表しているという勘違いをしている人も少なくないんじゃないか。それが時事ネタだったり哲学っぽいものだったりと「高度」になっていくというくらいのものだなんていう。そういう人たちは、目の前に起こっていることを物語に変換しようとするのだろうから、まさに「考えるな、感じろ」と申し上げたい。
はたまた、ソーラン/よさこいからヒップホップにいたるまで、音楽との同調や一糸乱れぬチームワークのもたらすカタルシスこそがダンスの醍醐味という偏見が、これからのダンス教育によって益々培われる予感もたっぷりだ。でも、それもダンスの一面に過ぎないから、そこに面白さを見出せなくても心配御無用。
そんなわけで、ダンス作品が何を言おうとしているのか読み取ろうとするのに疲れ果て、テレビなんかで見かけるダンスとの相性がよくないとお悩みのみなさんにお薦めしたい本作は、「トミー・ウンゲラープロジェクト」と銘打たれているものの、有名すぎる絵本『すてきな三にんぐみ』のダンス版でもなければ、整然とした群舞も現れないだろう。
カンパニー金魚としての新作の?部も楽しみだが、日替わりゲストとの即興対決も見逃せない。黒田育世+松本じろ、KATHY、東野祥子、白井剛。こりゃあ毎日行かざるをえないじゃないかというくらいの豪華さ。
意味など考えるいとまも与えられずに打ちのめされていただきたい。 (励滋)




地点『コリオレイナス

1月25日(金)〜29日(火)@京都府府民ホールアルティ(今出川http://www.chiten.org/

ロンドン・グローブ座で上演された『コリオレイナス』(シェイクスピア)の日本凱旋公演。貴重な上演とあって、何を差し置いても観に行くべしな公演なのだけど、京都に行けるかどうか怪しい状況なので、とりあえず願掛け的に、少し書きます。あ、忘れてた、みたいな人がいるといけないので。
京都を拠点とする劇団・地点であるけれども、横浜にもたびたび来ているし、ロシアやイギリスでも上演され、もはや世界的な劇団と言ってもよいのではないかと思う。「地点語」と呼ばれる独特の発話法や、主宰・演出家である三浦基の風変わりな(と言ってもいいと思う)特性については、今度発売される「クイック・ジャパン」に書いたのでそちらを見ていただければと思うけども、とにかくスケール感の大きな存在。ビッグ・ダディ、という感じがする(よう分からん喩えですが)。難解だ、とか言われがちだけれども、実はかなりユーモラスだし、いつもとは違う回路を通して、ただひたすら舞台で起きていることを感じれば凄く楽しめると思います。
今回はグローブ座の構造を模した客席設定で、ヤード席という立ち見席もあるらしいので、お金のない人はここを買うのも面白いかも。
ちなみにグローブ座での公演を観た關智子さんによる観劇レポートもあります。ロンドンでどんなふうに上演されたのか、雰囲気が少し分かるのではないかと。(フジコ)
http://www.wonderlands.jp/archives/21101/




飴屋法水演出 いわき総合高校2年生アトリエ公演『ブルーシート』

1月26日(土)〜27日(日)@いわき総合高校内グラウンド(常磐線内郷駅

個人的には今、遠征がかなり難しそうな状況なのだけれど……もし迷っている人がいたらそっと背中を押したいという気持ちで書きます。
飴屋法水が県立いわき総合高校の生徒たちとつくった『ブルーシート』。このタイトルは、ツイッター(@norimizua)によると高校の裏手にあるブルーシートに何かしらの着想を得ているらしい(グーグルマップの写真参照)。ただしこのブルーシートは現在は存在しないのだとか。何かが存在した、という証拠は時間と共に隠滅させられていく。だけれども、それは本当に無くなったと言えるのか? 危機は去ったのか? 忘却が果たして心の平穏を招くのだろうか?
校庭での公演となる。それで思い出すのは、去年のこの同じ時期、マームとジプシーの藤田貴大がやはりいわき総合高校で『ハロースクール、バイバイ』を上演した時に確か藤田君から聞いたエピソードで、震災後、窓を閉め切っての圧迫された学校生活が続いていた高校生たちにとって、「窓を開ける」という行為自体がとても覚悟のいることだったとか……。窓を開ける、空気を吸う、というのは、人間として当然の権利、と言っていいはずだけれども、そこに重大なクライシスを抱えてしまった、という、その時も感じたことだけど、生徒たちはやはりとてつもなく大きな傷(おそらく人類がこれまで経験したきたものの中でも比類ないくらい大きな傷)を抱えてしまったであろうということで、それに向き合うのはこちらもかなりしんどいし、とても無傷ではいられない。でもじゃあ、「こちら」とはいったい誰なのだろうか? いったい何を引き受け、何を無視できるというのだろうか? この日常とはなんなのか? 生きるってどういうことなのか? ……いろいろ考えてしまう。考えてしまった。少なくともわたしは去年の公演を観て、いわきの高校生たちが頑張って公演していたから感動した〜、とかは、全然、微塵も、思えなかった。打ちのめされてしまって、ただひとまず受け止めることしかできなかった。ただ、一年経って言うけれど、あの公演に対して、上演したことに対して、拍手を送りたいと思う。

飴屋法水は(そしてその作品は)、わたしが知る中で、最も倫理的に信頼できる存在であると感じる。嘘がない、とゆうか、誠実であるというか。いやだがしかし、演劇的な嘘(虚構)はあるのだ。むしろばっちり虚構をつくりあげることのできる人だ。そういえば今年1月4日の佐々木敦との対談において、飴屋は、現実と虚構との区別が自分にはないのだというような話を語っていた。それはきっと彼が、目に見えないもの、を幻視できる作家だからという気がするのだが、幻視というのは一歩間違えれば神秘主義的なことになりかねない。何しろ客観的な根拠を提示できるわけではないのだから(わたしにはこう見えた、ということでしかないから)、信じる人は信じるし、信じない人は信じないということになってしまう。でも飴屋法水はそうした神秘主義に与する人ではない。無いものを在るとは決して言わない(そこが倫理的たるゆえんだと思う)。にも関わらず、目に見えないものについて語り続けるのである。そこが本当に不思議な人だなと思うけれども、この困難……。ここには矛盾があるかもしれない。だけれどもこうして矛盾を抱えながらも具現化できるのが演劇で、だからこそ飴屋法水は演劇を(しばらくの沈黙ののち)手放さなかったのではないかと思う。彼にしか見えないものは、それでも、わたし(たち)に見えるのだ。演劇という、具体的な身体、モノ、音、声、時間、を伴った芸術を通してならば。……おそらく飴屋法水は、ある場所や人やシチュエーションとの出会いから感じたものを、彼独特の回路を通して作品に変換していく能力においてあまりに傑出している。そこでは、打ち棄てられて誰からも省みられなくなったような人やモノが、彼独自のやり方で息を吹き返し、あるいは死んだまま、虚構の生を与えられて、まるで幽霊のように語り出すのだった。そしてその死に隣接したような際どい語りには、いつも、強く心をたれるのである。

さて少し物理的な話をまとめておきたい。まず天気について。この週末、東北地方には強い寒気が入り込んでくるらしく、なにしろ屋外公演なので、現地に赴かれる方は万全の防寒対策をとっていただきたいと思います。ホッカイロとか必須で。
なお両日とも13:40開場、14:00開演。全席自由。入場無料!、だけれども要申し込み(10時〜16時の間にいわき総合高校0426-26-3505に予約)。
交通機関については、JR常磐線だと上野駅から湯本駅までスーパーひたちで約2時間(6390円)。あるいは東京駅からいわき駅まで高速バスで約3時間(3350円)。バスは4枚つづりの回数券をシェアすれば片道2750円で済みます(つまり2人で行けば回数券がお得)。個人的には、バスで東京駅からいわき駅まで行って、そこからJR常磐線内郷駅に行くのがベストな道かなと感じます(体験済み)。(フジコ)
■東京駅〜いわき駅 バス時刻表
http://www.jrbuskanto.co.jp/bus_route/cotimep01.cfm?pa=1&pb=1&pc=j0010391&pd=0&st=1
内郷駅からいわき総合高校までの地図(徒歩7分
http://www.iwakisogo-h.fks.ed.jp/img/iwakisogo_map.gif




下鴨車窓『煙の塔』

1月31日(木)〜2月5日(火)@アトリエ劇研(京都・松ヶ崎)http://tana2yo.under.jp/cn17/pg124.html

京都の劇作家・田辺剛が作品ごとにメンバーを募る演劇ユニット「下鴨車窓」の新作。75年生まれの田辺氏は京都の小劇場「アトリエ劇研」のディレクターでもあり、今公演でも京都の色々な劇団で活躍する役者たちが集まっている。以前この劇団の公演を観た時に「ガチガチに構造的過ぎる」と感じ、それは田辺氏が「舞台上に表現される」戯曲というより「紙面での表現」である文学を志向しているからでは?と推測したのであるが、まだ1回しか観ていない劇団をそう決めつけるのは失礼だ。今作は、惜しまれつつ解散したWANDERING PARTYの元代表・高杉征司が主演という事で、かなりタイトでアグレッシブな舞台を期待している。(西尾)