マンスリー・ブリコメンド(2013年6月)

6月のマンスリー・ブリコメンドです(コンセプトはこちら)。

こんにちは。
梅雨に似合わない晴れた日が続いてますが、いかがお過ごしですか?
今月もよろしくお願いします。(落)

★メンバーのプロフィールはこちら。http://d.hatena.ne.jp/bricolaq/20120930/p1



今月のブリコメンド

鈴木励滋(すずき・れいじ) twitter:@suzurejio

カトリヒデトシ twitter:@hide_KATORI

徳永京子(とくなが・きょうこ) twitter:@k_tokunaga

★ステージ・チョイス!(徳永京子オススメステージ情報)
http://www.next-choice.com/data/?p=13494


西尾孔志(にしお・ひろし) twitter:@nishiohiroshi

■子供鉅人『モータプール』

古賀菜々絵(こが・ななえ)




岡崎藝術座『(飲めない人のための)ブラックコーヒー』

【東京公演】6月14日(金)〜23日(日)@北品川フリースペース楽間(北品川、新馬場、品川)
【京都公演】6月28日(金)〜30日(日)@KAIKA(烏丸、四条)
【熊本公演】7月12日(金)〜13日(土)@早川倉庫(呉服町)
【鹿児島公演】7月15日(日)@e-terrace(交通局前)

http://okazaki-art-theatre.com/

岡崎藝術座を語ることの難しさについて、批評家・佐々木敦が『F/T12ドキュメント』に「わかられたいが、わからせたくはないので、わかられない」という文章を寄稿している。そこでは主にそのテーマ性(メッセージ性)に着目して論が展開されているのだが、それはそれで参照していただくとして……とにかくこうした趣旨の文章が書かれるというのは、岡崎藝術座ほど批評家泣かせの存在はいない、ということのひとつの証明でもあるのだろう。いわゆるシーンとか文脈とか●●系とかに位置づけるのも難しい。何か線を引こうとすると、そこからどうしてもはみ出してしまうのだ。
とはいえ面白いのは間違いないのだから、多くの人にぜひ観てほしい、と相当な自信を持って言える。「私にはわからなかった」と言われても「はは、そうでしたか」と明るい笑顔で迎えられるような、不思議とひらけた心持ちでいられるのである。しかもたぶん前知識や教養もほとんど必要ないと思う。どんな人でもとりあえずは観に行ってみてほしい。


……ということでこのブリコメンドを終えてもいいのだが(なので以下は蛇足というか、どちらかというと一度は岡崎藝術座を観たことがある、という人を想定して書きます)、いったいどんな言葉でこの面白さを伝えたら?……とわたしも頭を悩ませてきたので、それについて少し。実はロラン・バルトがその最晩年の写真論『明るい部屋』で展開している《ストゥディウム/プンクトゥム》という概念がヒントになるのではないかと思っているのです。もちろん、ある瞬間を切りとった「写真」と、稽古や本番を通して何度も反復され構成される「演劇」とでは、そのまま同じように論じることはできないのだが、ヒントとして借用することで、考えを進めることができるかもしれない。(最近わたしの中では一周回ってあえてバルト、みたいな周回遅れのバルトブームが起きているのも、この概念に惹かれたことをきっかけとしており、しかもこの概念に触れて最初に思い起こしたのが、まさに岡崎藝術座だった。)

バルトのこの写真論は、次のような問題意識に端を発している。すなわちそれは「ある写真は私のもとに不意にやって来るが、他の写真はそうではない」ということ。ああ、なるほどまさしく……ここでいう「写真」を「演劇」に読み換えてもいいと思う。つまり「ある演劇は私のもとに不意にやって来るが、他の演劇はそうではない」のだ。そして岡崎藝術座の諸作品はまぎれもなく前者なのである。そしておそらくは、そのような演劇に出会わないかぎり、人は「演劇」を好きにはならない。部分が全体をさらってしまうのである。まったく謎だが事実そうである、というこの現象を解明できそうなのが《プンクトゥム》なのだ。

まず、道徳的・政治的な教養文化を通して理解できるものが《ストゥディウム》と呼ばれる。これは確かに感動や共感を呼ぶこともあるけれど、あくまでそれは「平均的な感情に属し、ほとんどしつけから生ずると言ってよい」。要するに、ある教育的成果によって、人間はある芸術作品を社会的にきちんと嗜むことができる。その意図を汲んだり、狙い通りの反応を起こしたりもする。多くの場合、演劇における「感動」や「共感」の大部分も、こうした《ストゥディウム》を経由してもたらされていると考えられる。例えば「感動の物語」に涙するのは、泣くに値するだけの意味がそこにあるからだ。

しかしそうした中にあって、きわめて稀なケースとして、ある細部が観る者の関心をそそることがある。それが《プンクトゥム》である。これはもともと刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目、さらにはサイコロの一振りなどを意味するラテン語らしい。
もしかしたら岡崎藝術座の魅力とは、そうした《プンクトゥム》がしばしば舞台の上に現われる(現われることを許している)ということではないか?

厄介なのは、これは計算してつくることがほぼ不可能な、極めてアンコントローラブルで無作為的な存在だということ。例えば、「珍しさ」「決定的瞬間」「手練の早業」「技術的な欠陥の意図的利用」「思わぬ掘り出し物の撮影」……これらの衝撃はそれはそれで面白いけど《プンクトゥム》じゃないよねとバルトはあっさりと分別している。「ある種の細部は、私を《突き刺す》ことができるらしい。もしそれが私を突き刺さないとしたら、それはおそらく、写真家によって意図的にそこに置かれたからである」。……ふーむ、じゃあいったい《プンクトゥム》はどう捉えたらいいのか?

「私が名指すことのできるものは、事実上、私を突き刺すことができないのだ。名指すことができないということは、乱れを示す良い兆候である。(…)私は、なぜ引きつけられるのか、言いかえれば、どこに引きつけられるのか、を言うことができない。(…)効果は確かに感じられるのだが、しかしその位置を突きとめることはできず、その記号、その名前が見出せない。その効果は切れ味がよいのだが、しかしそれが達しているのは、私の心の漠とした地帯である。それは鋭いが覆い隠され、沈黙のなかで叫んでいる。奇妙に矛盾した言い方だが、それはゆらめく閃光なのである。」

……心の漠とした地帯における、ゆらめく閃光ときたか……。ずいぶんと回りくどい表現だが、これは単なる言語的遊戯、籠絡、言葉遊びにすぎないのだろうか? あるいは交通事故に直面する直前のバルトの発狂によるものなのだろうか? わたしはそうは思わない。というのは実際に、こうとしか言いようのないものを、これまでの数々の岡崎藝術座の作品の中に見てきたと証言できるからだ。これは「UFOを確かに見た!」という証言のように信用ならないものだろうか? いや、だからこそ、わたしはなんとかして、自分が確かに見たはずの魅力的なものを、人に手渡したいと願っているのである。ところが困ったことに、ロラン・バルトが考える写真における《プンクトゥム》は極めて私的なものであって、人によって引っかかるポイントが異なるものでもあるらしい。だから最初から「写真一般」について語ることは不可能だ、というスタイルで『明るい部屋』は書かれているのである。では演劇ではどうだろうか? 目を閉じて、これまで観てきた数々の舞台を思い返してみる。その中に、岡崎藝術座のあのシーンや、あのシーン、あるいはあのシーン……が、突き刺された傷として、斑点のように存在していることを確かに感じ取ることができる(っていうかまざまざと見ることができる)ではないか。それらはあくまでも断片的な「部分」であって、「全体」の物語にはほぼなんらの貢献も果たしていないように思える。そのような漂流する記憶が、それでも未だに残り続けているのはなぜだろうか。それらの記憶はあまりにも極私的なものに属するように思われるので、きわめて語りづらいと感じられるけれども、結局のところ舞台を見るというのはそういう極私的な行為なのでは?とも思う。そうなると、単なる分析の範疇を超えて、ある作品の魅力に言葉で到達しようと試みるならば、それはどうしても極私的なものを通っていくほかないのではないか、という気もしてくるのだった。

や、全く例を挙げないのも説得力に欠けるので、ひとつだけ。『隣人ジミーの不在』の中で、競馬のおじさんに扮した武谷公雄と、行き場を失ったかに見える山縣太一がただ立って、ちょっと音楽が流れるだけのシーン。あそこに何かしらの意味を読み取るのはまったく不可能だとわたしは思うのだが(たとえ読み取ったとしてもそれはただの深読みでしかないと思う)、何か、なぜだか、今なおあのシーンには心をえぐりとられるように感じるのである。なんて無意味で、美しいシーンなのか! しかし演劇が面白いのは、たぶんあのシーンだけを見ても、そのような謎の感動は起こらないということである。

今回の『(飲めない人のための)ブラックコーヒー』は、まずは東京・品川で。そのあとは京都、熊本、鹿児島へのツアーです。(フジコ)




子供鉅人『モータプール』

【伊丹公演】5月24日(金)〜26日(日)@AI・HALL(伊丹)※終了
【東京公演】6月7日(金)〜9日(日)@アサヒ・アートスクエア(浅草)

http://www.kodomokyojin.com/motor_pool/

気がついたら手を口に当てて嗚咽を堪えていた。『モータプール』の伊丹公演の終盤、私の身に起こった出来事。
過去作品『バーニング・スキン』『幕末スープレックス』、大阪下町の益山宅で行われた『キッチンドライブ』、町を舞台にした移動劇『コノハナアドベンチャー2』(怪作!再演求む)など、子供鉅人の作・演出の益山貴司はキャパの大小、メジャーからアングラまで、様々な幅の行き来を試みつつも、基本は人間の感情の機微を描く事に重きを置き、物語の力を信じている劇作家である。
しかしダンサーの黒田育世が振付で参加する今作は、様々な人々の記憶の断片のような、物語以前とも言える風景描写を無数に散りばめた実験的な作品となっている。
そしてこの作品で最も驚いた事は、今までヒゲに分厚い眼鏡に変な髪型の、少年冒険小説に出てきそうな謎の大人キャラを演じる事で自己との距離をとってきた益山貴司が、私の知る限り初めてプライベートな少年性を剥き出しにして、なりふり構わず劇場内を走り回ったことである。
その姿はマームとジプシーに似ているという指摘が出てくるかも知れない。しかし、益山少年の風景には、ボケた祖母がおり、だらしない父や口うるさい母がおり、たくさんの兄弟がいる。コミュニティが面倒臭いくらいに濃く結びついている。それらへの無償の愛を口にしつつ、切り離すようにスピードをあげて走り続ける益山貴司の姿は、何かに似ているなど関係なく、感動的であり、転機を感じさせるものがあった。(西尾)



城山羊の会『効率の優先』

6月7日(金)〜6月16日(日)@東京芸術劇場シアターイースト(池袋)
http://shiroyaginokai.com/

初めから面白いと分かっているものを観にいくほど暇じゃないし、面白いものは自分の足と経験で探すのだ、と言う気持ちはよくわかる。でも大人には時間がない。あらかじめ面白いと分かっているものを、選んで観に行きたいときだってある。そんなときには、この城山羊の会を選択肢に加えてみてほしい。
今回の作品はオフィスの中が舞台とのこと。仕事場というのは不思議なもので、不本意なことも理不尽なことも「仕事だから」という一言で我慢しなくちゃいけないような空気があります。本音と建前の狭間で、上司や部下の前で装ったり媚びたり、社会性の名の下に瞬間的に人格を切り替える。これを滑稽と見るか、同情するかはその人次第ですけれど、あなたはいかがですか。
今回のタイトルである『効率の優先』というのも、昨今のコスト削減のあおりを受けた現場の苦しみに寄り添う感じがしていて、何とも律儀でおかしい。そうそう、会社は大人の男女が集う場所でもあります。大人は楽しいことを若者には秘密でしているものだから、なおさら覗いてみたくなります、ね。

なお、今回稽古場を見学したので、レポートをこちらに書いています。主宰である山内ケンジさんのお話も記載しているので、よろしければご笑覧下さい。(落)



エムキチビート『Fight Alone 3rd』

6月6日(木) 〜 6月30日(日)@エビス駅前Bar(恵比寿)
http://www.emukichi-beat.com/index.html

「10分以上、15分以内の持ち時間でひとり芝居をする」。もともと、エムキチビートの劇団員だけで始めたという、かくも明確な形式の本企画は今回で3回目だそう。1チーム4人編成で、脚本・演出は誰かに頼ってもよいらしい。今回の出演者陣に目を引かれたので、初めて行ってみるつもりです。今後もっと、出たい人たちが集まって企画が続いたら素敵だなあ。
チームAでは、おぼんろの末原拓馬をイチ押ししたい。(実は私は、メイクしたときの彼が小劇場界で一番美しい俳優だと思っている。ただし彼は25日以降しか出演しない。)チームCには佐賀モトキがいるし、チームDは花組芝居/あやめ十八番の堀越涼の芸達者ぶりが観られそう。同じくチームDで、The End of Companyジエン社の山本健介が脚本提供している作品もある。チームEのMUハセガワアユムの脚本も観たい、なんていう欲が次々出てきてしまう。そんなわけで書ききれないけど、平日の公演は19:00から始まって21:00からも続けて行われるので、一晩で2チーム観ることができそうです。恵比寿のバーでドリンク片手に、私たちの15分を彼らに預けてみませんか。(落)