マンスリー・ブリコメンド(2013年9月)

9月のマンスリー・ブリコメンドです(コンセプトはこちら)。

一雨ごとに秋が深くなりますね。
秋冬の観劇シーズンに向けて、今月も随時いろいろご紹介します。(落)

★メンバーのプロフィールはこちら。http://d.hatena.ne.jp/bricolaq/20120930/p1


今月のブリコメンド

カトリヒデトシ twitter:@hide_KATORI

徳永京子(とくなが・きょうこ) twitter:@k_tokunaga


西尾孔志(にしお・ひろし) twitter:@nishiohiroshi

古賀菜々絵(こが・ななえ)





チェルフィッチュ『地面と床』(京都公演)

9月28日(土)〜29日(日)@京都府府民ホール(今出川
http://kyoto-ex.jp/program/chelfitsch/


先日、年配の知人が言うには、チェルフィッチュは最初『フリータイム』を観たんだけど途中で帰りたくなった(が対面式で難しくて諦めた)、なのに、なんだか気になってしまって結局5作品くらい追いかけていて、今度の新作もとても楽しみにしているんだよね、とのことで、ああ、こういう即断しない演劇の受容の仕方ってなかなかいいものですね、と思ったのだった。
ともあれ、彼も楽しみにしているというその新作のタイトルは『地面と床』。4月に横浜で公開リハーサルが行われたのだが、わたしは大怪我をしていて出歩けない状態で、やむなくUstreamで観た。2時間ほどのUstを、片時も飽きずに観たのってたぶんあれが初めて。幽霊が登場するらしい。ん、この不穏な気配には見覚えが……と、同じくチェルフィッチュの『わたしたちは無傷な別人である』を思い出す。あの作品については『演劇最強論』でもさんざん書いたのでここでは繰り返さないけど、あの時、チェルフィッチュ岡田利規と、飴屋法水とが、「新潮」誌上で交わしていた往復書簡のことがぼんやりと思い出されてくる。幽霊。ゴースト。……単なる霊感云々の問題して片付けるわけにはいかないだろう。おそらくそれは生者と死者を、この世とあの世を結びつける存在なのであって、何かを無きものにして不可視の領域に追いやろうとするようなこの世界の(幽霊よりもはるかに恐ろしい)力に対して、ある種の異議申し立てをするためにこそ彼/彼女は「出る」のだ。そのことにゾクゾクしちゃう。果たして『地面と床』はどんな作品になっているのかな。そしてサンガツの音楽はどのように機能するのかしら……? いや、無闇な期待はよそう。ただこの舞台に起こるであろうことを淡々と受け止めたい。
とはいえ関東で観られるのはまだ先のこと。この作品はすでに海外で上演されており、日本では9月末の京都(KYOTO EXPERIMENT)でまず初公開となる。そのあとは12月に横浜のKAATで。一刻も早く観たいと思いつつ、わたしは横浜公演まで待ってみます(いささかマゾヒスティックな待機です、これは)。しかし秋の京都。他のKYOTO EXPERIMENTの作品も興味深いし、行ったらきっと楽しそう。 (フジコ)




五反田団『五反田の朝焼け』

9月23日(月)〜29日(日)@アトリエヘリコプター(五反田、大崎)
http://ki.gmobb.jp/bee/asayake/


2011年11月以来の劇団員だけの公演です。前回の団員公演『五反田の夜』について、私のささやかな観劇記録ノートによれば「もはや禅問答に見える」とあった。些細な台詞もいちいち笑えてしょうがないのに、次第にただ笑っている自分が愚かしくなるくらいの完成度で、無駄しかないのに全てが必要。そんなアンビバレンスを讃えたかったものと思われる。
五反田団の団員は、女優陣がとにかく魅力的。鈴を転がす透明ボイスで場を支配する望月志津子。お姉ちゃんと呼びたくなるくらいしっかり者にも見えるし、妹にしたいくらい小柄で黒目がちでかわいい後藤飛鳥。アパートの一室で食堂を経営しているお料理上手な中川幸子(おいしいのでおすすめのお店です)、西田麻耶の押しの強さは、自然体なのにすごい圧力を放つし、宮部純子の虚ろな魅力は、そこに立ってるだけでもすべてを吸着するみたい。
ちなみに、今作のあらすじについて、前田司郎のTwitterアカウントでの説明はこちら。

「鶴を折って被災地に送るボランティアを二年半続けている五反田絆の会。三万羽を目前にして会員たちは揺れていた。夫によるDV、貧困、孤独。そして迫り来る新勢力おもてなしの会との抗争。愛とは何かを問いかける社会派問題作です。」

……どうやら、設定は『五反田の夜』を踏襲しているようだ。しかし「おもてなしの会」は確実に今話題のアレを意識しているし、絆だのボランティアだの、笑っていいのか分からない要素をフラットに並べまくったあげく、軽々とそれを踏み越えていく前田司郎にはいつもながら戦慄する。そんな彼のことを一番わかっている劇団員が演じるちょっとヘンな人々は、おかしくてしみじみ笑えるのに、のんきに笑ってる場合じゃない、って背筋が寒くなるような狂気も持っていて、やっぱりその魅力はアンビバレンス。(雅季子)




■ハイバイ『月光のつゝしみ』

9月20日(金)〜26日(木)@KAAT 神奈川芸術劇場日本大通り
http://hi-bye.net/


先日、原作者の岩松了さんと演出の岩井秀人さんのインタビューをしたのだけれど、岩松さんと岩井さんとわたし、三人がその場にいるのは映画監督のジム・ジャームッシュが引き合わせたんじゃないかというくらい三者三様若かりし頃にジャームッシュ作品に強烈に惹かれていたという話になった。
インタビューの様子はこちら。
http://bit.ly/17DuaK5
ジャームッシュ作品のプロモーションか! という内容になってしまうので泣く泣くそのほとんどをカットしたのだけれど、わたしが岩松作品や岩井作品に感じている核心がそこにあったような気がする。
岩松さんは『ストレンジャー・ザン・パラダイス』でおばさんのところへ行ってしまった従妹をジョン・ルーリーが男友達と訪ねていって、ホットドッグ屋で働いている彼女のところへ行くくだりで、ほとんど何も起こらないことのすごさを語ってくれた。
彼らはすることもなく、湖を見に行くくらいだけれど、それも雪でほとんど見えない。そして、男友達(リチャード・エドソン)が彼女のことがけっこう好きなんだろうと思い浮かぶ。「この人は彼女を好きだぞ」と説明されればそれまでのことだが、ハッキリ示されないことによってかえって人の感情がより見えてくる。岩松さんは、自分たちはそういう作業をやっているような気がする、と。
「月光のつゝしみ」はまさにそんな作品だ。
何から何まで言葉で説明されて、音楽や照明で「はい、ここで感動してください!」みたいな作品に食傷を覚えるのであれば、ぜひとも足をお運びいただきたい。
岩松さんほどストイックになれないと語った岩井さんも、自分のルーツともいえるこの作品を取り上げることで、ふだんは「超守備的」なことをやっているのに「便乗して遠慮なしにやってみたい」とも語っていた。
攻撃型岩井版「月光のつゝしみ」によって、帰り道に世界や他者のことが違った風に見えてくるかもしれない。与えられたものを受けるだけではなく、自律して観るという視点をもたらしてくれる、これはそんな奥ゆきも秘めた作品なのではないかとわたしは思っている。(励滋)




■悪魔のしるし『 悪魔としるし / Fiend and Symptom 』

9月20日(金)〜9月23日(月・祝)@相鉄本多劇場(横浜)
http://www.akumanoshirushi.com



「結局演劇です。逃げられません。」
悪魔のしるし主宰・危口統之については『演劇最強論』にロングインタビューと紹介文を掲載しているので、そちらでイメージはつかんでいただけるはずだと思う。彼は一見「演劇」を壊しているように見えるので、ある種の演劇の様式を愛している人にとってその行為は「野蛮な解体」として映るかもしれないが、実のところはスクラップ&ビルド、スクラップ&ビルド……の不断の作業の(報われないかもしれない)繰り返しを通して、演劇のプリミティブな魅力を再召喚しようとしているのだ。……いやあえてこう言ってもいいだろう。悪魔のしるしは、寝ぼけていてたまに寝言をぼやく程度になってしまった演劇の神様を、その孤独のピコピコハンマーによって叩き起こそうとしているのだと。

言うまでもないことだが、この世界にかんする様々な言説は、ネットをひらけばあふれている。ああでもないこうでもない。だがその中で何を信用できるというのか。Aは正しくてBはダメダメってことでいいのか? OK? そしてじゃあ危口統之は信じていいのかね? いや信じることは不可能だ。なぜなら彼は、みずからが神になることを拒絶するに違いないからである。何かをいたずらに信奉することは他のものを「要りません!」と切り捨てることであるが、彼はそうした安易な切り捨てを良しとはしないだろう。神との闘いが始まった。そう、神は死んでいなかったのだ。ただ分散し拡散し、様々なところで人間どもを誘惑している。信奉を強いている。私に従えと。小さくミニマムサイズに成り下がったとはいえ、神の力は依然として強力である。人間の弱さにつけこんで、あっさり自分色に染めてしまうだろう。果たしてピコピコハンマーで勝負になるかしら……? とりあえず俳優たちは強力なメンバーが揃った。場所は横浜駅西口、相鉄本多劇場(フジコ)




Ank『SUMMER PARADE』

9月18日(水)〜22日(日)@大山SUBTERRANEAN(大山、板橋区役所前)
http://ank.ohitashi.com/stage.html


まるでお百度参りかのように、相当な数の演劇公演を見続けているうちに、ひとつひとつについて「面白かった/つまらなかった」とか「好き/嫌い」とかの感想は二の次になってしまった。それ以上に、その作り手が「信頼できるかどうか」。にわかには判断できない。何かの拍子に、作り手の意識や技量が飛躍的に伸びたり、あるいは見ているこちらの視野も変わったりするから。一種の運命的な瞬間。

AnKは前作の『8畳』(2013年4月)を観た時に、その瞬間に出会えたと思った。近年若い作り手たちの演劇が注目を浴びていて、その理由については『演劇最強論』にも書いたけども、さすがにこれ以上ボコボコと才能が出てくるものでもないだろう……と感じ始めていた時期でもあり、正直に言えば「若さ」に倦みつつもあったのだが、『8畳』に描かれていためくるめくファンタジーとそのフレッシュさ、そして何より人間がこの世界に生きて死ぬということの何たるかを描こうとするその意志に触れて、あらためて、演劇(観劇)って面白いな、と思い直したのだった。

作・演出の山内晶は、恋愛に近いところにいる人たちの感情の機微を、身体的に表現するのがとてもうまい。どううまいのかは舞台で感じてみてください。タイミングが間に合わなくて『演劇最強論』では紹介できなかったけども、彼女もまた「反復とパッチワーク」の申し子であると思うし、繊細さと豪快さを併せ持った面白い作家だと思う。今作『SUMMER PALADE』は、アンドロイドと女の子が主人公らしい。SFなのかしら。少し季節外れなそのタイトルは、寂寞とした感覚も呼び起こしますね。不肖わたくし、初日(18日)のアフタートークに出ます。どんな作品か未知数ですが、ぜひいらしてください。 (フジコ)




■芸劇eyes番外編・第2弾『God save the Queen

9月12日(木)〜9月16日(月・祝)@東京芸術劇場シアターイースト(池袋)
http://www.geigeki.jp/performance/theater032/


「こうして、ひやかし半分に文学や芸術をやろうとしている大ぜいの婦人のなかで、ながつづきするひとはごく少数しかない。この第一の障害をのりこえたひとたちでも、たいていは自己愛と劣等感との間にいつまでももじもじしていることが多い。自己を忘れることができないという欠陥は、ここではほかのどの職業においてよりも彼女にはやっかいな重荷になるだろう。彼女の主要な目標が、自我を抽象的に確かめることであり、また成功という形のうえだけでの満足をめざすものであるなら、世界について専心熟考することはできないだろう。新しく世界を創造することは不可能だろう。」
「独創的な作家というものは、生きているあいだは、かならずなにかと反感をもたれるものだ。新しさはひとを不安にし不快にする。女は男の領分である思想、芸術の世界でみとめられると、びっくりしてうれしくなる。そしておとなしくしている。混乱させたり、深くさぐりをいれたり、爆発させたりしようとはしない。謙遜にし、上品ないい趣味をみせて、文学などやろうとした厚かましさを許してもらわなければ、といった調子だ。彼女は画一主義の確実な価値のほうに味方する。みんなが女に期待しているその女特有の調子を、ちょうど適度に文学にみちびきいれている。私は女なのですということを、ちゃんと選択された優美さ、甘さ、気取り、などでもって気づかせるようにする。未知の道にどんどん入って行くことなど彼女に期待してはならない。」

さて、こうした「彼女」に対する言及が、今回の「God save the Queen」(GsQ)に参加する5人の作家たちにも当てはまるのかどうかは、実際に劇場で確かめるほかない。GsQとは、2011年の「20年安泰。」に続く 芸劇eyes番外編の第2弾であり、演劇ジャーナリスト・徳永京子がコーディネートした優れた気鋭の演劇作家たちの短編作品を、オムニバス的に上演する企画である。今回は女性ばかり5人。ふつうに考えて、若手新進劇団の作品をいっぺんに5つも観られる、なんてのはイベントとしてかなりお得感があるわけだが、残念ながらGsQは「ふつう」ではない。……というのも彼女たちの才能は単に「若い」とか「新しい」とか「女である」といったことを超えた非凡さを持っているのだから。タカハ劇団だけはまだ拝見していないので現時点では判断つかないけども、少なくともあとの4劇団に関しては、今観る価値が確実にあると断言できるし、この先20年……いやもしかしたらそれ以上の歴史(演劇史、フェミニズム史)にとって重要な作家たちの誕生を目の当たりにできるかもしれない。

鳥公園(西尾佳織)は、モノの質感にこだわり、ごろんとそこに転がっていること(ある意味ではそこに捨て置かれていること)を手がかりに、この社会に今あるような存在や時間の感覚からこぼれ落ちたものを追求してきた。20世紀後半の日本演劇界における思想的巨人といっていいで太田省吾から、その書物を通して受け継いでいるものもきっと大きい。果たして彼女の持っている「遅れ」という特殊な時間感覚が、20分ほどの短編作品でどこまで展開されうるかは未知数だが、現在の小劇場のメインストリームを形成している評価軸からは、少し離れたところでゆっくりと力を醸成している。今回は劇団サンプルの看板女優・野津あおいも客演するなど、これまでとはちょっと違ったお楽しみも。

ワワフラミンゴ(鳥山フキ)は、まだ一度しか観ていないけれど、きわめてシュールなその話法には、脳味噌を溶かされるような快感があった。靴を揃えたりだとか、奇妙なところが丁寧なのだ。今回は「黄色いプラスチックの下敷き」をイメージしているらしくてちょっと小学生的な気分になってワクワクする。「エビ、カニ、ホッチキス、双子等が気になる」という謎のコメントにも共感(?)を覚える。

うさぎストライプ(大池容子)は、きわめてミニマムな箱庭世界をあえて構築し、その「壁」にドンキホーテのように突っ込んでいくような気概を感じる。つまり一種の自作自演だが、ある意味では正しく演劇の力を行使して、この世界と自己を捉えているとも言えるだろう。今回もおそらく例の得意技でくるのではないかと想像。もしかしたら初期うさぎストライプの集大成的な作品になるのかも。

Q(市原佐都子)は、その軽やかで感染力の高い言語感覚、独特のグルーヴ感、コミカルさ、淫靡さ……で人気を獲得しつつあり、というか大ブレークするのも時間の問題という感もあるが、本人たちがそうした短期決戦的な評価や評判を「どうでもいい」と冷ややかに見ている感じがとても信頼できる。というか作品づくりにこれほど真摯な人はそうはいないのでは? この社会とそれに飼い慣らされている人間に対する鋭い観察眼、世界を構成するマテリアルを感受するアンテナ、そしてそれらを自分なりのユーモラスな表現へと昇華していく手腕には比類のないものを感じる。Qの歴史的重要性については、ようやっと発売になる『演劇最強論』でも詳しく記述しているので、気になる人はぜひそちらを参照していただきたい。

こうしたアウェイ的環境でのオムニバスでは、全ての参加作家が十全に力を発揮するのは難しい。もちろん彼女たちは全力で作品をつくるのだとしても、である。作品をつくり、観る、という行為はそれ自体が一種の斬り結び合いでもあり、そこにはいっさいの言い訳も温情も必要ないのだが、それとは別に最近の気分としては、個々の作品の成否を超えて長い目で見たいという気持ちのほうがつよい。おそらくGsQはいつか語り継がれるとても大事な通過点になるだろう。こういう晴れの舞台を同時代に目撃できるのは、それ自体とても貴重なことなのだということは噛みしめておきたい。

冒頭の文章はシモーヌ・ド・ボーヴォワールの『第二の性』(1949年)の第三巻で、女性芸術家について書かれている箇所から拝借した。「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」といういささか誤解を招きうる一文で有名なあの古典的思想書だが、性生活をも含めて、様々な実例に基づいたその丁寧な言及は、「女子」という言葉をさんざん流布宣伝しておきながら最近鮮やかに「脱女子宣言」をして新規顧客開拓に余念のないセックス特集がウリの某女性誌(えっと、要するに「an an」)もびっくりの細やかな解像度を持っていて、今読んでも身につまされることが多い。と同時に、この本は未来に対する預言にも満ちているのが興味深いところだ。現状に対する冷静な分析のみならず、これから来るであろう世界を構想する力を持った思想家は、残念ながら今ではほとんど(というか全く?)いなくなってしまった。きっとネットをひらけばあらゆるものが近視眼的に「見えてしまう」現代では、それは発揮するのが難しい想像力なのだろう。世の中が良くも悪くも拡大・発展していた時代に注目された、モダニストと言っていいボーヴォワールの思想やヴィジョンが、ポストモダンと称される現代の浮遊し拡散し閉塞する精神・社会・ネットワークの中で果たしてどこまで通用するかは分からないけども、いささか古めかしいモダニスト的な趣味や考えをどこかに抱えているわたしとしては、けっしてただの(あの頃は良かった的な)古い夢の黄泉返りとしてではなく、耳を傾ける価値が彼女の言葉には今なおあると感じるのである。それに、ある人間が生きるということ……つまりは世界を感受し、何かを考え、芸術であれ他の手仕事であれモノをつくって誰かに手渡すという営みに関しては、まあ60年やそこらではそんなに変わりゃしないでしょ、とも思うのだった。GsQの彼女たちにしてもそうだ。だが、特筆したいのは、彼女たちはそれぞれにきわめて現代的な軽やかさ、あるいは、やわらかさ、を持っているということだ。それは「女性性」とか「母性」などといった紋切り型の言葉で簡単に片付けていいものではない。むしろ、生き延びていくための、したたかでしなやかな知恵として、彼女たちが、おそらくは学校や、職場や、家族や、友人や、恋人や、演劇界などの様々な人間関係の場の中で、男たちにひたすら眼差されながら獲得してきたものなのだ。そうした時間の中で積み重なってきたものが、憎悪やルサンチマンではなく、やわらかな知性(そしてユーモア、アイロニー)であることは一種の救いにも思える。この際だから、いっそのこと「希望」なんて言葉も使ってしまおう。GsQは希望である。世界は変わろうとしている。だがきっと今が、かなり際どい分水嶺なのだ。つくるほうもそうだが、観るほうがどのようにそれを受け止め、どんな言葉をそこに投げ返すかにも、この忘却と排除と狂騒にしか頼ることのできなくなった、しみったれた世界の命運がかかっている。(フジコ)

演劇最強論

演劇最強論




次世代の演劇界を牽引する若い才能を紹介する芸劇eyesシリーズの番外編が、2年ぶりに行われます。そして、第1弾のタイトルが『20年安泰。』だったのに対して、今回は『God save the Queen』! これを『女王 陛下万歳』という別名でも知られるイギリス国歌的な曲名と考えてしまうと、歌詞にある「御世の長からむことを」あたりとが前回と変に共鳴しちゃいそうですが、引きつづき企画をコーディーネートしているのがロック好きな演劇ジャーナリスト・徳永京子さんということを踏まえると、国歌はもとよりクイーンやビートルズでもなく、やはりセックス・ピストルズが下敷きなんでしょう。「未来なんて ありゃしねえ」「NO FUTURE」と若者の閉塞感を唄いながら、 反抗がもつ自由な精神を強烈に主張す るパンクの名曲ですね。
 そう類推すると、今回の公演に著述家の湯山玲子さんが「まだ誰の意識にも上がっていない時代の言葉を坑道のカナリアのように予感しうるのが演劇」との言葉を寄せているのが非常にしっくりきます。それは、叫びなのか、警鐘なのか。東京芸術劇場の地下に連れてこられた5人の女性演出家たちが発する“声”に、劇場の闇のなかで、耳を澄ませてみたいと思います。
 あるいは、『God save the Queen』というタイトルから、イキウメを主宰する前川知大さんが書いている同名戯曲を連想してみてもいいのかもしれません。歴史を変えてしまうひとりの女性を、未来の女性天皇を護る、物語です。そして実際、今回選ばれた5人のなかに、今後、歴史を変えるような活躍をする作・演出家がいるのではないかとも予想しています。たとえば前回の『20年安泰。』に参加した「マームとジプシー」主宰の藤田貴大さん(その後に第56回岸田國士戯曲賞を受賞 )のように。
 そう。そんな信頼も、今回の5団体をセレクトした徳永京子さんにはあるのです。
「まだ誰の意識にも上がっていない時代の言葉」から浮かびあがってくる、未来の姿をみせてもらえるはずだという信頼が。「NO FUTURE」を掲げながら、そこには新しく産まれてくる未来が あるはずなのです。(ひなつ)




八重子 命令するヤツにお願いするヤツは勝てないのよ。伴が「出てけ!」って言ったら、あなたどうするの?
遠部  「あなたこそ出てってよ!」
八重子 お願いじゃない。
遠部  「あなたこそ、出てきなさいよ!」
八重子 丁寧語の命令形ね。男だってつかえるわ。女だけしかつかわない、女言葉に命令形があるか探してごらんなさいな。
遠部  ないですかぁ、命令形?
八重子 私もずっと探してるのよ。でもまだ見つからないの
遠部  嘘ぉ、そうでしたっけ?
八重子 どうもねぇ、日本人は女に命令してほしくなかったらしくて…

(永井愛『ら抜きの殺意』)


 

女言葉には命令形がない。あるのはお願いの言葉だけだ、と永井愛はかつて書いた。それを読んだ昔の私は「たしかに」なんて思ってしまったけど、でもそれって自分で自分を枠にはめてしまってない?という不安はある。相変わらず、女言葉の命令形は見つからないし、しょっちゅう自分の身体のことを考えざるを得ない。潮の満ち引きで糸車を回し、赤い糸を紡いで今日も生きている。でも注意してほしいのは、それが「肉感的な」とか「女性的な」という感覚の話に直結するわけではないこと。身体について呑気ではいられなくて、自分の身体がしっかり自分のものだから、その分よけいな自意識から自由だったりする。これからするのは、そういう作家たちの紹介だ。

God save The Queenは、各団体20分ずつのショーケース。鳥公園は、作品の先に延びる時間のレールが見えるようなスケールを感じるし、タカハ劇団の物語の造形は、硬派で熱くて、骨太。ワワフラミンゴは人の夢の中にまるごと迷い込んだみたいな世界を緻密につくる不可思議さがある。うさぎストライプの、身体そのものから音楽が鳴り響いて発散されるようなせつなさ。Qの、観察者の突き放した視点とそれを自分の身体に引き寄せる瞬間の落差には、はっとさせられる。この企画に参加する作家たちの、男にも女にも目配せしない冷徹なフェアネスさは、女がお願いの言葉しか持たなかった時代なんてひょいと越えて、自分たちの身体と言葉で、世界の外縁を広げていってしまうんだろう。 (雅季子)




おいおい、お薦めの余地が無いじゃないの!
って、取りあえずベタなツッコミを入れる風で遅刻したことをうやむやにしようとしているのだが、そう、すでに初日の幕は開いた。
企画コーディネーターの徳永京子は『演劇最強論』の中にある自身の「さよなら、子宮で考える女性劇作家たち。」という文章に記した女性劇作家論への「具体的な応答」としてこの企画があると言っている。
自分の中にある差異をひたすらに否定するのではなく無視するでもなく、つまり性差に囚われることなく、したたかに利用しながらも、「絶対的な女性性から物語を書いた」創り手が、この5人の女性たちなのだという。
ここでわたしはある言葉を思い出す。
「主人の道具はけっして主人の家を解体することにはならない/その道具は、主人が参加しているゲームで、一時的に主人を負かすのに役立つかもしれない。しかし、私たちが本物の変革を起こすには、何の役にも立たないのだ」
アフリカ系でレズビアンだといわれているオードリー・ロードの言葉だ。
「絶対的な女性性」という道具は、既存の土俵を叩き割る可能性を予感させる。そして、自分に染みついてしまっている性差による生き難さの超克は、何も女性のみに担わされた使命ではない。神里雄大の『(飲めない人のための)ブラックコーヒー』など、男性という烙印を押された者からの変革に向けての抵抗の最たるものであった。
「女性」という枠組みに囚われないだけじゃなくて、そんな枠組みがあるために人生に絡みついちまう面倒厄介葛藤困苦を、ドォリャーっと卓袱台ひっくり返すみたいに丸ごとやっつけちゃってくれるような人が、この中からも現れるんじゃないかと秘かに期待している。神にも女王にも決して跪くことのないくせにこんなタイトルを付けた徳永はきっと、不敬にもそんなところまで射程としているんじゃないかと勘繰っているからだ。(励滋)