8.「これから」について

――最後にお聞きしたいのですが、今この中で、これから演劇をつくる……演出家・俳優などアーティスト側をやりたいひと、どれくらいいます?……3人。じゃあ制作もしくはスタッフなど、支える側で関わりたいひと。……3人。じゃあ批評をしていきたいひとはいます?……ひとり。観るだけのひとは?……いない。まだ決まってないひとは?……2人、わたし含めて(笑)。
 今日は学生だけで集合しているので、聞きたいのは「これから」についてどう思う?ということです。これから演劇はどうなるのか、わたしたちはこれからどうすればいいのかについて、それぞれお話いただけますか?

宮坂 それを考えて、シンポジウム(F/Tシンポジウム「演劇の未来」)に行きました。いろんな人たちが新しい手法に挑戦している状況が、これからどうなるのかなと思って。で、話を聞いて、大人たちはそれぞれ演劇の未来をだいぶシミュレーションしちゃってるんだと感じました。私が最近観ているような偏った演劇について、頭の中で綺麗に整理されている人たちは、そういう演劇がこれからどうなっていくかをだいたい把握している。もう考えられちゃってるのが悔しい。その予想を若い世代がどう裏切るか、だと思うんです。

――つくる側として裏切りたい?

宮坂 つくりたいです、何かしら。つくる側で裏切りたい。裏切りの時代に生きたい。そういう野望があります。

福井 私はつくる側・支える側で言ったら半々ですね。どちらにせよ、お金の問題が重要だと思います。BTBの俳優さんは、参加してその都度ギャラが出るのではなく、お給料制らしいんです。保障されているのが羨ましい。大きな劇団の役者でもバイト生活をしている方は多いので、そういう環境が変わるといいですよね。
 開いてるのか閉じてるのかわからないという話では、小劇場の人が映画やテレビにばんばん出ているのに情報が流れない状況が歯がゆいです。演劇おもしろいと思うんですけど、メジャーに向かうのとマイナーに走る二極化が気になります。

森 とにかく新しいこと、奇抜な方向にばかり走って特に問題意識がない現代アートのようになりたくないですね。じゃあどうすればいいのかと言ったら、いろんなものを観て自分の内的な意識を高めていくしかないのかなと。そういう意味では、たとえば海外では給料制ということや、運営の問題点などに気づける場でもあったりしますよね。

清水 私は子どもの情操教育を広めていくことに興味があるんだけど、きっかけがあって。小五のときに、学校に読み聞かせのボランティアの人がきたの。感動する話で思わず泣いてしまったら、横で見てたクラスメイトに笑われて。なんで感動したのに笑われなきゃならないの、と傷ついたんだけど、そのクラスメイトたちはそもそも土台として感情を汲み取るようなことに触れてこなくて、話を理解できなかったのかもしれないと思ったんです。
 演劇なんて観なくても生きていけるから、観ないひとはほんとに観ないよね。演劇と言えば劇団四季、ちょっと詳しい人でもキャラメルボックスくらい……。私もそんなに観てないし「チェルフィッチュ??ままごと??」なんだけど(笑)。一部の知ってるひとばっかりがあれは良いあれは良いと盛り上がってると、外からは怖すぎてついていけないよね。テレビドラマやアニメ等わかりやすくて単純明快なものにばかり触れている人がチェルフィッチュや『光のない。』を観ても「なんでこれで3000円とられるの?」と思っちゃうかもしれない。私もPortBの街を歩くのが演劇なの?と最初は思ったけど、だんだん「演劇かも」と思えるようになった。少しずつでいいから、わからなくても、受け入れられる感性にみんながなれるような土壌ができていけばいいなと思います。

杉本 私は太田省吾の研究から、時間論を考えたいんです。確か太田さんが「演劇にはなぜやるのかという理由がない」と言っていたと思うのですが、意味が見いだせないから自分探しめいたことをしてしまう……確かにそうですよね。特に最近の演劇ではストーリー以外の要素が重要になっているので、どうしてこのような表現になるのかということ、また演劇表現を知覚する観客のことから、私たちがどういう時間に生きているのかについてを考えていきたいです。

中村 私は演劇の今後はわからないです、現在をまだ知らないから。さっき情操教育の話をしてましたけど、いろんなひとがいろんなことを考えて、いろんなかたちで表現するのが当然になるといいなと思います。

――みなさん、ありがとうございました。



◎コメント

 「今年はF/Tの節目なんだ」。F/T13でいくつかの演目を観るうちに、そんな思いが漠然と生まれてきました。決定的な根拠があったわけではなく、おそらく一観客の動物的直感に近いものだったのでしょう。F/T13が閉幕した後もぐるぐるとわたしの頭を巡っていたのは、「これから」についての疑問でした。演劇はこれからどうなっていくのか? わたしたちはこれからどうすればいいのか? その手がかりを探すために、同年代のひとは一体F/Tから何を受け取ったのかを知りたい、まだ立場にも責任にも縛られていない学生たちの率直な言葉を聞きたい、と考えたことが本企画のきっかけです。結果的に、当日はF/Tや演劇との関わり方がそれぞれ異なる7名が集まり、素直な感想を共有する場となりました。また、図らずも集まった全員が女性だったことについても興味深く思っています。

 これまでF/Tは積極的にシンポジウムを開催し、ドキュメント・ジャーナルを発行するなどして、ひとびとが言葉と対峙する機会を数多く設けてきました。それらは明らかに、演劇を消費される娯楽としてではなく、社会に場をつくりだす「機能」として扱う活動だったと言えます。国外から先鋭的な演劇作品を招聘し、国内のすぐれたアーティストと共同制作を行い、ツアーパフォーマンス演劇やフラッシュモブなど劇場外にも飛び出していったF/Tの取り組みは、固定観念の枠を外し、演劇のもつ可能性を外へ外へとひろげる持続的な挑戦でもあったはずです。

 座談会の2日後、F/T09春からプログラムディレクターを務めてきた相馬千秋氏の退任が発表されました。現在もその背景は明らかになっておらず、多くのひとびとが暗中で信じられるものを手さぐりしているような状態にあります。そうした事態においてこそ、F/Tの試行が何を生み出したのか、それらが演劇の「これから」にどのように作用していくのかを、演劇に関わるひとびとがそれぞれの方法で検証していくことが重要になるのでは、という気がしています。

 今回、「F/Tには参加できなかったが会合に興味がある」と声をかけてくれた学生も複数いました。演劇について言葉を交わすこと、思考すること、共有することをポジティブに捉える若者が多数いる事実は、今後におけるひとつの希望とも言えるかもしれません。

 最後に、参加者の皆さま、参加は叶わずもお声かけ下さった学生の皆さま、twitterでの情報拡散にご協力下さった皆さま、公開の機会を与えて下さった藤原ちからさん及びBricolaQスタッフ落雅季子さんに、改めて深く御礼を申し上げます。ありがとうございました。

                       中村みなみ



 F/Tについて学生だけで語り合いたい、という呼びかけをtwitterで目にして直感的に何か感じるものがあったので、企画者である中村みなみさんにBrioclaQに掲載したいと依頼を出した。内容には介入したくなかったので、座談会には立ち合わずに近くの喫茶店で終わるのを待った。

 彼女たちの語りは完璧ではないかもしれない。例えば『いのちのちQⅡ』の字幕の設置箇所についても、ふつう、こういう場合はスタッフがきちんと案内するので大きな問題は生じない。そのように、ものごとを自分とは異なる別の立場から、多角的かつプロフェッショナルに検証するための経験値は、まだまだ不足していると思う(学生にかぎった話ではないけれど)。

 若い人たちは無責任だ。数ヶ月先にはまったく別のことに夢中になっているかもしれない彼らの言葉を、そう簡単に信用することはできないと思う。今は近しいものに感じているであろう「演劇の世界」からも、様々な事情によってやむをえず引き裂かれ、離れることもある。というか、ほとんどの場合がそうなのだし、それで人生が終わるわけでもない。また還ってくることもあるかもしれない(「演劇の世界」の懐はひろいのだから)。ともあれ、「学生」という庇護された状態のアイデンティティを失った時、どうやってこの世界で生きていくのかを、ひとりひとり、あらためて問われることになる。学生料金のディスカウントは適用されないし、世間の風当たりは一気に厳しくなる。「未来」なんてもう軽々しく言えるわけもない。そうやって幾つかの座礁と再生を経て、初めて「言葉」は信頼を獲得する。……まあエラそうに、と自分でも思いながらこれを書いています。

 しかしながら、彼女たちの語りの中に時おり光るものがあるのも事実で、誰だって最初は経験なんてないのだし、何かをきっかけにして大きく変身することもあり、だからこそ人間はおもしろいのだ。自分のこだわりが実は卑小なものにすぎなかったと気づいたり、新たな視野を獲得することで、真に切実な自分自身のテーマを発見することだってある。その萌芽はこの座談会の中にも(特に最後のほうに)見え隠れしているように感じる。進む道はそれぞれだとしても、既存の価値観や発想を逸脱し、未知の世界をきりひらいて、(わたしも含めた)オトナたちの勝手な予測や期待をマジで「裏切って」ほしいと願います。

 演劇を語ることは人生を語ることでもあると感じることがある。別に批評が人生論である必要はないのだが、とはいえ演劇は、フィクションとしても実体としても様々な人生をその中に巻き込んでいくものであり、だからこそきっと、人を惹きつけてやまないのだろう。相馬千秋ディレクションによるF/Tが「言葉」にこだわりつづけてきたのは、それぞれの「生きるということ」を問いつづける試みでもあったと思う。そこで灯された光の断片は、この座談会にも流れ込んでいるとわたしは思っています。

 掲載を許可してくださった中村みなみさんと参加者のみなさんに、心から感謝します。

                       藤原ちから