世田谷パブリックシアター演劇部 批評課(1日目)

 午後2時25分、三軒茶屋の商店街を、中学生たちと歩く。ワークショップ会場の小学校から、徒歩で10分ほどの劇場に行き、これから、とある演劇を観るのだ。少女たちはおしゃべりしているので歩みが遅い。私は、先ほど一生懸命覚えたみんなの名前を、心の中でひとりひとり反芻しながら彼女たちを追い抜いて、先頭をすたすた歩く少年に何となくついていった。

 商店街は道幅が狭いわりに店が密集しており、自転車がよく行き交う。「自転車多いね」と話しかけると、彼は小さく「はい」と言った。もっと話そうと思って「えっと、お兄ちゃんの方だよね」と訊ねると「いいえ弟です」と否定された。彼は、兄といっしょに参加しているのだ。上着を着て服の色が変わったので間違えてしまった。あさはかである。「よく似てると言われます」と、少年は控えめに私をフォローした。

 商店街は246に突き当たった。横断歩道の信号を待ちながら中学生たちの、まだ幼さの残る横顔を見る。倍以上も長く生き、演劇の世界に少なからず身をひたしている私は、「音楽の盛り上がり」「照明の彩り」「俳優の叙情」「脚本の言葉」など、何の要素に感動(あるいは興ざめ)しているのか考え、引き裂かれながら演劇を観ることにもう慣れている。分解によって感動の大きさが損なわれることはない。解像度を上げることで、人の心を動かす演劇の正体を見きわめる。これは年の功であろう。

 さっきのレクチャーで見た、長嶋監督とか淀川長治のダイジェスト映像だってそうだ。野球や映画への愛の深さゆえに、少し滑稽にすら見えてしまう彼らの「批評」の言葉を、中学生たちはどう受け止めたのだろう。あの語り口が、長年の愛の蓄積から溢れでたものだということに気づいただろうか? この世に生まれてまだ10数年。堆積のわずかな中学生たちの地層は、しかし、ふかふかしてやわらかそうでもある。

 そのやわらかな身体に、ワークショップで示された「演劇の要素を分解して観てみよう」という鑑賞方法はどう染みこむのか。満席のシアタートラム、『地域の物語2015 あっちはこっち、こっちはあっち 〜介助・介護をかんがえる』。中学生たちは立ち見席にぞろぞろ案内されてゆく。その様子を視界の端っこに見ながら私は、いや、まあとにかく、次は間違えずに兄と弟の名を呼ぶのだ、と決意して開演を待っていた。


(落 雅季子 2015.03.22)