8/4 夢/妄想、ロロ的

松田選手が亡くなった。憎らしいくらいの素晴らしいリベロだった。わたしはFC東京ファンなので、敵チームとしてどんだけ痛い目に遭わされたことだろう。同い年だった。どうしてこんなことになるのか。夜の打ち合わせ(飲み会?)では9割方サッカーの話になった。


変な夢を見た。だいぶエロティックだったのでここに書き記すのも恥ずかしいことだけども、ある意味ショックだったのでそこから考えてみたい(といってもさすがに具体的な内容は記せないレベル)。夢、について原理的に考えてみる。

夢ってA地点からB地点までの移動が論理的なつながりを持たなくて、そこを抽象的にスッと抜けてしまうし、その部分を言葉にしようとしてもちょっと無理じゃないですか。対立がなく、あらゆるものがあらかじめ含まれ溶け合っているかのようなもので。つまり自然科学的な行為の積み重ねとして「感触」が現れてくるのではなくて、先に「感触」が現れ、するとそこに至るまでの繋がりもゆるやかに認知されてしまう。具体例を挙げると、誰かを口説き落とすためにはそれなりの手順や理由が現実界では必要なわけだけど、夢の中ではすでに溶け合った「恋人」的な状態が先に来て、そこまでの過程は既成事実としてまるであらかじめ存在していたかのように浮かび上がることになる。(これはロロがいくつかの作品で用いているやり方でもあり、「恋人」状態は唐突に訪れてそこから物語がはじまる。)

そこではもう過去、現在、未来といったリニアな時間軸(順序)も無視されていると言っていいし、そのせいもあるのか「夢の中に流れる時間」は実際の睡眠時間における「夢を見ている時間」とは尺も異なる。60分しか夢を見てないはずなのに夢の中では数日が、あるいは一生分のそれが経過しているようなことがある。するともしも夢の中の世界を勘定に入れるとするなら、人生は何十年といったスパンでは測れなくて、様々にパラレルな可能世界の折り畳まれた時間であるのかもしれない。


今これは寝起きで書いているのでだいぶ頭がボーッとしていて、まだちょっとだけ夢の感触が残っているのでひさしぶりにグズグズな文章を書いてるなあと思うし、日記をこうした毎日付ける形式にしたのはこんな文章を書き散らかさないためだったんだけど、まあたまにはいいか……。別に何か目新しいものを書いているわけでさえないのですが。


ところで、考えや価値観の異なるいろんな人と話すのは楽しいわけですが、最近ふと思うのは、やはり比較的とても若い人(20代前半くらいまで)は、自分たちの属するコミュニティ(学校内の人脈とか)の外側にいる人間と話す回路が乏しいなあ寂しく思うことがたまにある。その必要もまだあまり感じてないのだろうし(年齢を重ねればいやおうなくそうした場に放り出されたりもするけど……)。だけどそこで近頃の若い子は云々と説教してもしょうがないので、まあどうやったらそこから出てきてくれるのかな、とかもたまに思うけど、もちろん、どんどんそこから出てこようとする積極的な子も結構いるわけで、ひとたびそうゆう回路を身につけた人はコツを掴んでいくらでも出てこれる(社交的に泳げる)。それか快快みたいに、その自分たちの友達コミュニティのようなものをどんどん拡大していくことで世界をひろげてしまういかにも彼ららしいやり方もあるわけだ。

しかしなんでそれを書いたかとゆうと、そんなおっさんくさいことを思いつつも、一方ではある程度価値観を共有できそうな人と話すのもやっぱり愉しいことだと思うってことを言いたくて。それはややエロティックな行為でさえあり、ここでさっきの夢の話に戻るわけだけども、そうした人との会話にはあらかじめ含まれている、溶けている、ものがあるのだとゆうこと。結局のところ人はどんなに強がってみてもこうした夢的でエロティックな繋がりを求めてしまうのではないか。せめて生活の中にこうしたコミュニケーションのできる領域が確保されていなければ、人生はとても色褪せたものになってしまうのではないか。生きていて脳が疲弊する、ような感覚が、わたしの中にはたまに訪れるのですが、夢的でエロティックな繋がりに比べれば、現実世界で使う論理的でパブリックな言葉は(その価値を必要以上に貶めたくはないけど)ずいぶんとかりそめのものにすぎない気がする。こうした夢的でエロティックな繋がりは、私的なものとして片付けられがちだけども、にもかかわらず誰もが根っこに持っているもので、それを抜きにして世の中だの社会だの国家だの言い始めるのもどうかなと思う。わたしが芸術に惹かれるのも結局はこうゆう部分の暗さに呼ばれるような気がするからかもしれない。世の中や社会や国家や世界から逃れるためにではなくて、ここからそれらを再構築してまなざしていくために。

例えば方言(ある限られた地方でのみ用いられる言語)の中には、こうした種類の親密なエロティシズムがいくらか込められていたりするし、もっと公私の中間的な部分を担うものがかつては様々にあったのだろう。ちょっとこのへんは寝起きでない時にまたあらためて整理するけど、例えば今読んでいる本の中では「祭り」が重要な位置を占めている。とかとか。とにかくこういった部分の存在をあらためて認知して「これもあるぞ!」って言っていかないと、ほんとにどうでもいい言葉ばかりで世界(日本)が埋め尽くされてしまうような恐怖がちょっとわたしの中にはあります。


で、ふと思ったけども、こうした夢的でエロティックな繋がりにとって、肉体の感触、はかなり重要なわけで、その肉に触りたい(セックスしたい)、といった欲求は人間のほとんど動物的な反応としてあるように思う。言葉に対して、肉体の優位がここにある(それを単純には肯定しないけど)。……だけれども、です。もしかしたらそのコミュニケーションの相手は現実に生きている相手でなくてもいいのだ、と考えることも一応はできるのではないか。たとえ空想であれ夢であれ、そうしたエロティシズムを喚起する対象を見い出すことができるのであれば人生はいくらか充足するのではないか。いわゆる二次元彼女とか、そうしたものはオタクカルチャーの中ではすっかり紋切り型のものになってしまったけども、単に対象となる萌えアイコンに射精的快感をおぼえるとかではなくて、自己満足や自家撞着として簡単に片付けられない世界を妄想によって切りひらいていく可能性はあるだろうかと考えてみたい。もしも妄想が、その人物の内側にあるもの以外の〈異質な他者〉をその中に含んでいるとしたら? 妄想を駆動しつづけることが安易な自己閉塞に陥るのではなく、その妄想の反復再生産が世界を拡張していくことだって可能なのだとしたら? ここで想起しているのは例えばヘンリー・ダーガーであり、色川武大であり、松井周であり、あとロロの三浦直之はじめ何人かの若い作家・演出家のこと。Q