8/20 マームとジプシーと、食卓

一昨日、『塩ふる世界。』について書いたばかりですが、今度はマームとジプシー『待ってた食卓、』をやはり横浜STスポットで。この作品は7月に北海道で観てかつてない衝撃を受けたわけですけども、新たなシーンも加わり、登場人物それぞれのバックグラウンドがより浮かび上がる傑作として再構築されていた。確かに、マームがこれまで蓄積してきた技術はこの作品でも惜しみなく使われているけども、それ以上にこれは直球勝負だと感じる。自信がなければストレートは投げられない。一周回って、もはやこれをストレートプレイと呼んでいいかもなと思うくらい、頼もしい作品だった。彼らをここまで育ててきたSTスポットとゆう小さな劇場に対する、(一時的な)お別れの挨拶のようにも個人的には思えた。彼らの規模は、この劇場の狭さからもうはみ出して、溢れ出そうとしているようにも感じた。


戯曲の中に、人物の関係やセリフ上の対立軸を仮構し、構造や間(ま)の力によって何かを訴えようとする劇作家は多いと思う。しかし藤田貴大はそれのみならず、あるシーンを何度もリフレインにかけることで、その一見取るに足らないシーンの中に含まれる微細な感情を、音楽的に、ゆっくりと、あるいは素早く、表面に(舞台に)引き出してくる。そこには様々な《角度=アングル》がある。だけど単に「異なる視点」で別の角度から描くだけなら、芥川龍之介の『藪の中』やその他の群像劇となんら変わりはない。マームの場合はそこに《編集=モンタージュ》を加え、さらに《速度=スピード》に意識的になることで、物語のシーンや、俳優の身体や声の中に隠れているノイズ的感情を、丹念に執拗に探り当てていく。

そうした執着による試行錯誤の結果、今ではリフレインの意味や、目的や、手つきも多様になった。もはや単に繊細とゆう言葉では表現しきれない。例えば『塩ふる世界。』のリフレインは油絵で泥臭く上塗りするようであり、レコード盤を素早くスクラッチするようでもある。一方の『待ってた食卓、』のそれは、時計のように時を刻んだり、ゆっくりと隠れた文字を炙り出すようにして回転したりする。しかし時には、強く、速く、スタイリッシュに。オーケストラの指揮のように。


だけど手法(How)は手法のためにあるのではない。描きたいもの(What)が彼らにはある。


『待ってた食卓、』横浜バージョンを観て感じたのは、あの「懐かしいって言っちゃダメかな。たまに後ろ振り返っちゃいけないかな」の印象深い名セリフに代表される過去への憧憬(ノスタルジー)以上に、今を生きていること、生きられていること、生きてしまっていることへの、強く、温かく、ゆっくりとした肯定だった。そうした肯定を示す言葉たちが強くわたしの心を打った。それは誰かの死の気配を感じているからこそ現れてくる、「現在を生きること」への執着や意志と言い換えてもいいと思う。わたしは7月に、彼らがこれまで幾度もそのモチーフの源泉にしてきた北海道伊達市に実際行ってみたのだが、そこで感じたのは、このミニマムな世界(=町)にとって、海、や、ラーメン屋、や、駅、が想像していた以上に大きな意味を持つとゆうことだった。そしてここには町の噂のようなもの、それも死にまつわる気配がどこかあり、数日間滞在しただけのわたしにも、そうしたエピソードの幾つかが耳に入ってきた。子供がいる。老人がいる。海は命をもたらすし奪いもする。あるいは山があり、その麓に大地があり、湖があり、川があり、それらの雄大さの前で人間は無力であり、それでもどっこい生きている。生きられている。生き延びてしまっている……。その喜びや悲しみや、理不尽さを引き受ける意志のようなものが、今回の2作品には力強く流れ込んでいるようにわたしは感じた。

理不尽を引き受けるといってもそれはもちろん単なる現状追認ではない。水平線の向こうに浮かぶ島(遠景)をその視界に捉えたものだ。そして去っていく人。残された人。戻ってくる人……。彼らはみんな、どこにいても、旅をしているのだろう。セリフにも登場するように、「生と死の中間地点」にいられるのだから。


ところでこの2作品の関係はコインの裏表のようで面白い。『塩ふる世界。』が彼らの表現のフロンティアを切りひらく最先端の芸術作品だとしたら、『待ってた食卓、』はより広範な人々の意志にアプローチする名作である。短期間に全然異なる方向性を持つこの2作品をつくれるなんて驚異的だけど、創作がほぼ同時進行だったからこそ生まれえたのかもしれない。それを可能にしたのはもちろん藤田貴大の想像力・構成力・演出力・筆力・胆力の為せるワザだけど、俳優たちの力も本当にほんとうに大きいなあと今回特に感じました。技術だけではなくて、ガッツがなくちゃ、こんなプレイはできないよね。ブラボー。千秋楽までガッツでがんばってほしいです。

もっといろんな土地とか、もっと大きな劇場でも、躍動する彼らを観たい。








ところで以下はわたくし事ですが、徹夜明けで疲れていたせいか、ツイッターに何か彼らのことを書いてたら、寝る直前にわたし自身の「食卓」のことを思い出して突然涙が出てきてしまった。それもあらためて書くのは恥ずかしいことだが声をあげて嗚咽するくらいの号泣(わたし自身のために泣くなんて何年ぶりか?)。わたしは決して食卓に恵まれたほうではないと今まで思ってきた。両親が共働きだったこともあり、さらにいえば不仲であり、そのほか様々な事情があって家庭は常になにものかによって脅かされていた。本当に、息を潜めるようにして生きていた。安定した食卓が待っていることなんてほとんどなくて、てんやものも多かったし、ただ千円札が食卓に置いてあることもしばしばで、その千円札を握りしめて兄弟の誰かが近所の弁当屋に行って唐揚げ定食やドライカレーを買ってきた。さらに中学からわたしは東京に出て一人暮らしになってしまい、最初のうちは親戚の食卓にご厄介になっていたけれどもそれもだんだん心苦しくなり(ずいぶん良くしてもらったしご飯も美味しかったけれども、やはり年頃の子にとって他人の食卓は気まずいものなのだ)、といってアパートには自炊するためのガスも引かれてなかったので、やはり弁当を買ってきたり居酒屋にごはん食べさせてもらいにいくといった日々だった。弁当屋のおねえさんの顔は今でも覚えている。そういったわけで「食卓」には恵まれていないと思っていたのだけれど。

ところがこの朝、寝る前に唐突に思い出したのは、死んだおばあちゃんちの食卓だった。いつの時期だったのか、かなり集中的におばあちゃんにご飯を作ってもらっていたことがある。下の弟が生まれる時も(母親が入院しているので)そうだったはずだし、もっと後にもそうした時期があった。おばあちゃんの食卓は野菜と魚が中心で、おひたしやおじゃこ(シラス)がよく出た。日曜市で買ってきた野菜を「新鮮やき食べやあ」と言って調理してくれるのだ。おやつにあんこ入りの餅もよく出た。よもぎもあったけれどもわたしはオーソドックスな白い餅が好きだった。トウモロコシや枝豆を茹でてくれることもあった。特に枝豆はわたしがすごく好きなのを知っているので頻繁に茹でてくれた(そういったわけで枝豆はわたしにとって特別な食べ物だ)。ちなみに大体の場合において卵かけごはんにした。卵は良質で新鮮なものを選んでくれていたと思う。ただし必ず味の素をかけていた。「味の素が体に悪い」みたいなことが喧伝される時代でもなかった。

今でもあの食卓に並んでいた食べ物の味や、匂いや、いろんな色を思い出すことができる。食卓のそばにはレンジが置いてあり、その上には古いタイプのトースターがあった。あと、そうだ、ヤクルト、飲んだなあ。たまにジョアだった。牛乳もよく飲んだ。明治のLOVE。卵焼きも焼いてもらった。

だけどある時わたしは母親に泣いて訴えたことがある。「肉が食べたい!」と。今思うとなんて幼稚なんだろうとは思うけれども、子供なのでやっぱり肉をすごく食べたかったのだ。しばらくおばあちゃんちの食卓に肉が並ばなかったので、そんなふうに駄々をこねたのだろう。でもそれをおばあちゃんに直接言うことはためらわれた。関係を壊してしまうような気がした。子供なりに、おばあちゃんの食卓に対して非礼であると思ったのか。といってそんなことわたしから訴えられたりしても母親は困ったはずだ。当時の我が家の力関係からして、母親が姑であるおばあちゃんに対して意見を言えたとは到底思えない。しかしその結果かなんなのか、もう時間軸も混乱していて正確なことはよく分からないが、おばあちゃんちの食卓にもウインナーが頻繁に並ぶようになった。ウインナーにはマヨネーズとケチャップを混ぜ合わせて付けて食べた。ハンバーグもたまに出た。それはおばあちゃんちの野菜や魚が並ぶ食卓のメニューの中では、少し浮いた存在だったような気がする。Q