9/5 七輪

仕事がちょうどひと段落したタイミングでもあり、橋本くんと高円寺で飲む。行ったことない店に行ってみたい、と思い、しばらく散歩して結局ガード下の店に入った。当たりだったと思う。まず安いし、しかも焼き鳥を七輪で焼く店だった。二人とも旅疲れをしているので、まったりと飲む。不思議な店だった。

横浜でのかもめライブ、超行きたかったけど、この体力ではきっと無理だったなあー。




ところでふと思ったことだが(橋本くんとは何の関係もないけど、たしか似たようなことをちょこっと話したこともあり、今書きますが)、ものを書く人間とゆうのは、修羅の道を歩むことになるのではないかと思う。ものを書かない人間は(そのほうがよっぽど健全なことだろうけども)、別段、発言に責任とかをそんなに感じなくてもいいし、好きなこと、楽しいこと、を追求していればよく、仲のいい人間たちとつるんだって別に問題ない。贔屓だろうがなんだろうが好きにやっていいのだ。だけど、ものを書く人間は違う。あの人と飲めて楽しい、みたいな素朴な感情はとうの昔に打ち捨てている。といって、責任やらしがらみやらにがんじがらめになるようでは(それがオトナやプロだと勘違いしている人もいるだろうが)二流三流であるだろう。広く浅く、みたいにやっていてもダメ(そんなのであれば幾らでも替えがきく)。だから、ふんばる。突き抜けようとする。ああ、これは絶対嫌われるだろうなあ、とゆうような時であっても、えいや、と通さないといけないことがある。なまじっかの友情や哀れみのような感情を打ち捨てて、通さなければならない牌があるのだと思う。そうしないと、何の実体もない「言葉」とゆうものに呑み込まれるような気がする。そうやって危険牌を通さざるをえない場面がたまにあって、その時は胸の奥がひりひり傷む。まあそれでも友達や仲間としてあるいは単に通りすがりとして一緒に過ごしてくれる人が幸いにもいたりするので、かろうじて救われていますが。

世の中の常識だとか、交遊関係だとかを基準にはできない(少なくともわたしはそう)。心の中に、他人にはそう簡単に見えない芯のようなものがあるんじゃないかな。どうかな。人によってその硬さや形は違うと思うけど。Q