10/15 原発についての2つの話

この日はまず、遊園地再生事業団『トータル・リビング』を観に行った。不思議な感触の残る舞台だった。すぐさま言葉にしてしまうことから、逃れていくような。

こうやって舞台を成立させることができるのだ、とゆうのは、宮沢さんの経験値の為せるわざか。と、まずはそんなことを思ったりした。途中、ウトウトしていたら、休憩時間になったりして。ウトウトすること自体は、悪いことではないように思った。こうゆう夢を最近見たな、といった親近感はあった。その一方では、ここで表現されている80年代的なるもの、に対して、宮沢さんはどこまで本気なのだろう、とか。一種の照れで、笑いにしてしまっているけども、案外、本気なのではないかとも思えた。それが全体として、古くさいような、新しいような、不思議な舞台になってたんじゃないか。あと一部、さようならギャングたち、みたいだなと思ったので、高橋源一郎を(この前日に)トークに呼んだのも分かるような気がした。

しかし、このもやもやはなんだろうか。とゆうのは、かなり地震原発のことについての、これは直球勝負、いや、照れとゆうカーブを含んだ投球であるような気がするけども、この舞台を成立させる(何かを語る)必然性のようなものはあまり感じられなかった。当日パンフに書いてあったように、「何を」ではなく「どうやって」のほうに、宮沢さんは重きを置いているのだろうと思うけれども、わたしは「ele-king」vol.3でも書いたように、「どうやって(How)」は重要であるにしても、やっぱり「何を(What)」があるものを今は観たいと思う。『トータル・リビング』は、さすが、と思うのは無理に苦しくなるような舞台ではなかったけれども、しかし実はかなり無理に語ろうと試みているような気がして、その必要はあるのだろうか、と思った。いや、言わなくていい、とゆうことではなくて、むしろそれだったら、デモに行った時にスピーチするとかで、よいような気も。


ともあれ断言はしたくないとゆうか、保留、でいきたいなと思ったのは、そのあとに続けて小嶋一郎+黒田真史+弓井茉那『250km圏内』を観たからでもある。いったいこれはなんなんだ?と戸惑った人も多いだろうけども、わたしにとってはフレッシュな舞台だった。ごくシンプルな作りではあるけれども、方法論としては「フィクションとは何か?」をごく素朴に問いかけるものであったし、内容的にも、2人芝居によって、原発に対する人々の反応の違いを顕わにしてみせた。そして、まあ、違ってていいじゃないか、的な、まあそっちの道もがんばれよ、的な、ごく素朴なメッセージが発せられていて、なんかそこに好感を持った。


中野RAFTは比較的家から近かったので、歩いて帰る。途中、おかゆを食べた。クコの実が、美味しい。Q