10/19 太っちょのおばさん

いささか二日酔いだった。マチネでマームの当日券を狙おうかとも思ったけど、体力絶対もたないので断念する。これから6日間で10本観て、1日休んでまた同じくらいのペース、とかそんな感じになっていくし。そうした時に、アリバイ的に「観た!」みたいに通り過ぎていくような観劇はすまいと心に誓う。とにかく楽しみたい。ひとつひとつの公演を体験したい。

わたしは、作家寄りだよね、みたいに見られることもあるかもしれないけど、実はそうである前になんといってもひとりの観客であると思う。といって、観客を代弁する、とかはできない。みんなバラバラで多種多様なのが観客だと思うから。でも、サリンジャーの『フラニーとゾーイー』に出てきた、うろ覚えだけど、あの、客席にいる太っちょのおばさん、あれはサリンジャー的解釈では神様なのかもしれないけれども、神様とかではなく、それこそが観客だし、わたし、なのだと思う。あの太っちょのおばさんは。そして、その太っちょのおばさんに向けられている公演は、なかなかいいぞ、と最近思う。逆にエンターテインメントであれ前衛であれ、そこがないとキツいのではないか。

例えばチェルフィッチュが客席との関係を模索してきたことについて、みんなどう考えているのだろうか?


鳥公園の初日が明けた。初日とゆうこともあるけれども、まだまだもっと!と思った。わたしは太っちょのおばさんの姿を客席に探したけれど、彼女の姿は見当たらなかったようだ。もっともっともっと大胆不敵でいいとわたしは思う。大胆不敵とはしかし、単に勢いつけて喋るとかもちろんそんな話ではないのであって、舞台とゆうその場に存在していること、その周囲にある空気、といったものと、俳優とが、どう馴染んでいくか、その馴染んでいく、あるいは摩擦を起こしているようなものを、どのように客席に届けていくか、といったあたりに、作品と世界との橋渡しは生まれるのではないかとわたしは思うのです。それが大胆不敵とゆうことです。図々しくも世界に存在してしまっていること。そこからがほんとうの物語の始まりではないでしょうか。いずれもういっかい観に行くのでいい感じになってるといいな。あと森すみれってやっぱり凄く魅力的な人だなあー。ほとんどその存在の意味を理解できないような面白さがある……。


とある人と立ち飲み屋で大いに語る。また飲んでしまった……。肝臓とか風邪ではなくて単に喉だから、つい飲んでしまうのよね。とにかくわたしはマイペースで生きていく。野垂れ死ぬまでは生きられるだろう。真夜中、高円寺のなんとかバーから電話がかかってきた。ああ、行きたかったが、力尽きて眠る。そうだ、ロンドンからのメールにも御返事をしなくては……。特にそう望んでいるとかではなく、いろんなことが動き出している。ぽやぽやしていたら、取り残されていくだろう。このすっかり色褪せているような東京に。まあ、それもいいかもしれないね、と思う。場末のスナックのドサ周りのような感じで、人生をやり直したっていいと思っているのだ。生きていく道は、その最後の意志さえあればなんとかなる。それはもはや意志とか希望とか呼べるものではないのかもしれない。存在している、とゆうこと。たぶんそれをふだんは忘れてしまっているのだ。右耳がうずく。その感触だとか。わたしとは何者か、みたいな問いにはほぼ意味も魅力もないが、わたしを構成する様々なものについて考えれば、それが実はわたし自身で完結できるものではないことに気付く。世界とはつまりそこに宿るものであり、そこにぽっかりとひらいている窓のようなものではないか?Q