3/3ノマド的な移動感覚

― 岩城京子って謎の人ですね。変な話、日本に拠点を置いたままでもたぶんそれなりに重要なキャリアを順調に重ねていけたようにも思うんですけど、ひとつのところに留まらないから、今回もせっかく本を出すのに、その発売日に日本にいないっていう(笑)。

岩城 何してんの?、って感じですよね(笑)。でもその生き方は気に入っていて。定住するとヒエラルキーが生まれるので、そこの闘いに巻き込まれてしまうんですけど、移動し続けるとそんなものはなくなるじゃないですか。素浪人みたいに道場破りをしていく必要はありますけど。

― そのノマド遊牧民)的な感じが面白いですね。物事への執着の仕方が違うのかな……。でも一方で、何度かお話した中では、ある種の郷土愛も感じますけど?

岩城 そこは明快に言葉にできない感覚はあるんですけど、震災が起きた時に、やはり日本は大切な場所だという意識が出てきたのはあります。というのも地震の時、私はたまたまフランスにいたんですけど、飛行機が飛ばなくなって、日本に入れなくなっちゃった。で、4月に帰ってきた時にはもう、今までの日本とは全然違うだろうと覚悟してたんですけど、そしたらわりと普通だったのでそれはそれで怖かった。……でもなんか、余命少ないお婆ちゃんとしての日本を看取るみたいな感覚で、日本が失くなっていく感じもあって。故郷を喪失していくような感覚を肌身で感じたんですね。それは他の国に対しては絶対ありえないことだと思う。

― 昔から様々な国や地域を転々としてらしたんですよね?

岩城 親が転勤族ではありましたしね。

― ほんとはそのあたりをお聞きしたいと思いつつ、時間がなくなってきてしまったのでいったん演劇の話に戻しますけども、以前、TPAMの丸岡ひろみさんに雑誌「エクス・ポ テン/ゼロ」でインタビューさせていただいた時に、チェルフィッチュにしても快快にしても、やはり海外では日本のカンパニーは「日本人」「東洋人」としてのオリエンタリズム的な受容を避けがたくされてしまうのではないか、といった議論が(インタビュアーの佐々木敦から)出たりもしました。日本のアーティストが海外で実際どのように受容されるのか、気になるところなのですが、そのあたりはどう感じていますか?

岩城 まず、西洋の人たちにオリエンタリズム的な見方があるかどうかで言えば、個々人で違うと思います。まったくそういうものがない人間もいます。それから、そういった絡め取られ方をすることを許容・利用している日本の作り手もいるでしょう。ただ私個人の意見を言えば、(オリエンタリズムという概念は)もちろんエドワード・サイードとかが随分昔(1978年)に疑問視した話であって、もう一切、個人的にはそういう概念を排したいんです。これだけ流動的な世界になってきた以上、国家の枠をつくること自体が私の中では……この考えはまだマイナーなのかもしれませんけど、でももう国家の枠組みを外して考えたほうが気持ちがいいと思うんですね。
 今後どんどん、特に先進国であれば変わらなくなってくる気がするんですよ。日本人だから能や狂言に親しむべきだとか、お琴の音楽に郷愁を感じるべきだ、みたいなのは、今でもすでにありえないし、シンパシーも感じないし、私自身、アメリカに住んでいたので郷愁と言えばアメリカの音楽かもしれないし、母親が家で流していた英国系のロックとか父親が好きだった落語とか、バレエを習っていた時にはチャイコフスキーが好きだったりとか、結局そういったもののミックスじゃないですか。だから「日本だから文化的にオリエンタリズムで……」とスタティックな枠で考えるのは視野が古いと思うので、自分としてはできるかぎり取り除きたいですね。
 ポストモダンとかモダンとかの括りじゃなくて、アルターモダン(http://en.wikipedia.org/wiki/Altermodern)っていう概念があります。イギリスのテイトブリテンで2年くらい前に、キュレーターが個展を開いてその言葉をつくったんです。それは、モダニズムがある絶対的なものの見方があるものだとすると、対するポストモダンはそれが崩壊して個々人がバラバラの生き方をするからまとまりがなくなっちゃうと。しかしアルターモダニズムはそれとも違って、いろんな国を渡り歩いて文化を練り上げていくという、多文化主義的な感覚なんです。そこでは縦軸の「国家」ではなくて、横軸の「移動性」で文化を編んでいく。それに近い形で私はこの本を書きたかったんですね。

― 移動性によって編み上げていく、という感覚はとても興味深いですね。ノマド的ネットワーカーがそうした編集なりキュレーションなりを実現していくということでしょうか。

岩城 今はまだ数は少ないと思うんですけど。

― この本は部数を300部しか刷らないそうですが、ほんとはもっと大々的に出していただければもっと広がりも出そうなんですけど……。でも、ひとまずは数は少なくてもそういったノマド的なネットワーカーに届くといいですね。

岩城 先ほども言ったみたいに、プライマリー・ソースとして参照できる資料がないのは致命的なので。未だに日本の現代演劇を知るための本が、極端なことを言えば、鈴木忠志の英訳本とかになってしまうのでは、さすがに困ってしまいますよね。

― まだ出版前ですが、現時点で海外での反応はありますか?

岩城 それは思いのほかロンドンに居ても感じることで、今度ロンドンのジャパン・ソサエティで、前田司郎さんのリーディングの前に、この本の内容をふまえつつ、日本のコンテンポラリー・シアターについてのプレゼンをしてくださいと言われたり。ロンドンのヤング・ヴィック劇場の前に書店があるんですけど、そこの書店員さんに直談判で営業しに行ったら、そういう本はこれまで全然なかったし置いていい、そして裏の劇場で出版パーティしていいからと無料で貸してくれることになって。ベルリンの書店の反応も良かったりとか。カルガリーの劇場のディレクターの人からも連絡がありました。

― インタビューしたこの8人はどういう意図で選んだんですか?

岩城 序文にも書いたんですけど、この人たちをひとつの枠では括れない。ただひとつ共通点を挙げられるとしたら、「現実に対して肯定的に捉えている」ということ。否定的に捉えていると言われがちな人たちですが、実は自分たちの現実を受け入れた上で、それに向き合っている。もうひとつ言うと、ものすごく自分の好みに対して絶対感を持っている人たちです。何を言われようが人の言うことは聞かんぞ、というくらい自分のやりたいことを強く持っている人たち。若干そうじゃない人も入ってますけど、でも今の流れとか世間的にこうしたほうがよいといった部分が少なからずあるにせよ、最初の段階では自分の好みから始めた、という絶対感がある人を選んだ。やりたいことがある人ではないとアーティストとして信用できない。マーケティングをして何かを始めるのならアーティストじゃなくてもいい気がするので、そうした人は選ばなかったですね。

― 年齢としては高山明さんだけ40代で、あとは30代ですね。

岩城 自分と同世代であることで私が理解しやすい、ってこともありましたけど、あとは年齢で切ることによって、ある程度の社会事象のようなまとまりは出てくる。とはいえ「こういう社会性を持った人たちですよ」というまとめかたは私自身はしてないんですけど、読み通すことによって見えてくるものはあるはずです。東京の現在はどうなっているんだ、ってことを理解できる本にもなっていると思う。

― 無理な括りはしていないけれども、文脈は紹介しているわけですね。

岩城 社会的な文脈もひっくるめて「演劇」だと思うので。だから例えばものすごく審美的なことだけを取り上げて作品批評をするのだったら、作品のディテールとかの質問をすると思うんですけど、そういうことはこの本ではあまりしてないです。どちらかというと「今なぜこういうものを作るのか?」という社会的な文脈なり切り口からの質問をしています。

― 前田司郎さんとか、どう答えてるのか気になりますね。

岩城 すごいちゃんと答えてくれてますよ(……しばらく前田司郎についての話)。人格も現れているかもしれない。その人の言葉がなるべく出るようにと思って書きました。

― わたしも彼らのインタビューを文字にした経験がありますが、みなさん、独特な言い回しや語彙を持っている人たちですよね。それを英語に訳す上での困難はなかったですか?

岩城 困難でしたよ!(笑)。日本でまず書いて、7月に外国に行って今度は英語で書き始めたんです。そしたら私の頭の中も英語になってるんで、元の日本語の文章が何を言ってるかちっとも分からない。主語がないとか、繰り返しがいっぱいあるとか。岡田利規さんが特にそうなんですけど(笑)、それもう言ったじゃん、みたいなことがずっとループで繰り返されていたり。

― ミニマルミュージックみたいな(笑)。

岩城 そうそう!(笑)で、英語脳になってた私は余剰分をカットしちゃったんです。だからエッセンスが凝縮されているので、かなり読みやすい文章にはなりました。とはいえ彼らの言葉遣いではあるんですけど、少し構築されている雰囲気になっているのは、英語で書いた後でもう一回日本語も書き直したからですね。

― ということはつまり、日本語で書いて、英語で書いて、また日本語で書き直したわけですね。その往復は、文章の強度があがりそう。

岩城 日本語の不明瞭な部分はクリアになりましたね。論理的に筋の合わないところが見えてきますから。面白い作業でした。それでもやっぱり日本人が話す言葉ではあるので、外国人が読んだ時に不思議なところはあると思います。これは説明が不十分だとか、質問に対しての答えになってないとか。

― ロンドンでは、やはりロジカルに思考する傾向がありますか?

岩城 ロジカルかどうかってことは日本人もそんなに変わらないと思います。ただあちらでは、質問されたことに関するマナーがロジカルっぽいんです。そうしないと失礼になるらしいので。だから決してあちらの人が特別に論理的に頭がいいわけではない(笑)。例えばフランスではフォーマルな場で質問する時、まずウィーかノンで答えられるような質問をしなくちゃいけないんですね。それが建前上のマナーなんです。一方答える相手は、ウィーかノンだけを答えるのでは、それも相手の仕事量に対して失礼に当たる。だから少なくとも、2センテンスは話せと(笑)。それがマナーなんですって。イギリスでもまずは結論を出す。それは結論が最後にあり、それさえもあるかどうか分からない日本語の構造とはまったく違うわけですよね。

― ……といったところで時間になってしまいました。スポンサーのお話やなぜインディペンデントで出版されたかなどもぜひ伺いたかったところですが、それはまたの機会にと思います。本の完成、楽しみにしています。ありがとうございました。Q


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