2/3日本演劇の状況

― 日本のお客の立場としては、自分たちが日頃観ているものがどういうふうに世界の中で捉えられうるのか分からないし、逆に世界の演劇事情もよく知らないけど、なんとなくきっとこれは日本ぽいんだろうなあ、という感じだけはある(笑)。

岩城 その「日本ぽいな」を言葉にしないといけない。たぶん藤原さんも私も何かしらのインナーサークルにいますよね。そうなると、その中だけで通じる専門用語というか、言葉にせずとも繋がるようなジャーゴンが生まれていくじゃないですか。それだと外部の人間と会話ができなくなっていきますよね。

― ジャーゴンって要するに、究極は、女子高生言葉とか2ちゃんねる用語のようなものですね。

岩城 そうそう。秘境の言語みたいになっていて。

― 極東の秘境……。

岩城 ほんとにそうです。その極東の秘境の部族が、部族内の言語で会話をしている。もちろんそれは世界のどこにいっても大なり小なりあることですけど、日本の演劇界にもそういう閉鎖性があって、だからなるべく外部の人間と話せるだけの意識が必要だと思うんですね。それは観る人だけじゃなくて作家もそうです。例えば、前田司郎さんが時間の概念について語っているとして、外国の人から言わせたらそれはベルクソンがもう言ってるじゃないかとか、あるいはタニノクロウさんの作品に対して、それはロバート・ウィルソンやマルターラーとどうつながってるんだ?、といった質問がおそらく出てくると思うんですね。その問いに答えうる言葉を、もちろん「どうでもいいでしょ」と言いたくなるのは十分理解したうえで、彼らはつくっていかなくてはいけないと私は思う。でも日本にいるかぎり、それはわりとしなくてもいい作業になるから。

― なるほど、海外の文脈と接続されることで、作家の言葉も鍛えられると。そういう意味では、チェルフィッチュなんかは各地でそういった経験を積み重ねてきたようにも思えますね。

岩城 ええ、岡田利規さんは自分なりの言葉をそれなりに作られているし、そうでしょうね。
 ロンドンの大学院に身を置いてみてよく分かったことなんですけど、ロンドンでは言葉の重みが十倍くらい重いんですよ。パブリックな発言は全部記録する。例えばよく山海塾天児牛大さんが仰るんですけど、15年くらい前に喋ったことを「ニューヨークタイムス」の記者が取材中に持ち出してきたりすると。それくらい言葉への重みを捉えてジャーナリズムをやっている人たちを相手に、どんな言葉を発していくのかが問われますよね。

― 先ほどのブログを拝見しても思ったんですけど、岩城さんの文章はどこかで外国語に翻訳しうる言葉だなと感じるところがありました。常にではないにしても、翻訳可能なものとして行き来する言語訓練をされているんだなと感じます。どうしても日本語って、阿吽の呼吸的な……

岩城 うん、そこがいいところでもありますけどね。日本人ってちょっとしたエスパーになりえますよ。最近、帰ってくるたびに思う。言葉がなくて会話してるなって。テレパシーですね。

― ええ、『猿の惑星』でエスパーたちが核戦争後の世界で核を崇めてるっていう皮肉がありますけど、まさにその絵図ですよね。ガラパゴス、とも言われてますけど、きっと日本でも独特の文化輸入の仕方はあったんです。そもそもかつては様々な形で大陸文化が混入してきたと言われているし。でも戦後にかぎって見ると、60年代ビートルズ以降の洋楽輸入のようなものがあって、しかしそれも飽和状態に陥り、今度は輸出だって時に、オタク文化が国の代表のように称揚され始めたのが20世紀後半の大きな流れだったと思います。ただ、日本にあるのは「Sushi」や「Otaku」や「AKB」だけではない、といったこともそろそろ示され始めるのではないかと思うし、その意味でもこの本は重要な役割を果たすと思います。

岩城 社会学者のブルデューも言ってましたけど、西洋では「ファンクションよりもフォームのほうが優れている」って感覚で美術を残していく。ところが日本に入ってきた文化がどう変容していくかというと、全部ファンクションになっていくんですよね。日本は明らかに機能性を追求していて、インフラも整っていて便利なんだけど、ビートルズでもなんでも記号的に消費していく中で楽しんでいる感じがします。演劇も「演劇好き」っていう機能をまずは装備して、何かしらのサークルに入る。そういう消費の仕方をしている気がする。

― 機能と記号が結託して、消費していくようなエンターテインメントがしばらく主流だったということでしょうか。やっぱり「戦後」を立て直すにあたって、日本人が最も得意としたのが機能性だったのかもしれないですね。もちろん日本にも、柳宗悦民芸運動のような意味での生活必需としての機能性の再発見はあったと思うんですけど、今のお話はおそらくそういった意味ではなくて、戦後日本の急速な近代化・ポストモダン化における大量生産・大量消費的な効率追求主義であるとか、80年代以降の広告文化の台頭といったことですよね。占領され、アメリカナイズされていく過程で、その部分がより肥大していったのかもしれないし。日本にも様式美はあったはずだけど……。

岩城 うん、谷崎潤一郎とかね。

― 『陰翳礼讃』なんて、厠の暗さとか……(笑)。岩城さんはあまり日本に居なかったけども、この数カ月の東京の節電騒ぎでは否応なく思い出しましたよ。

岩城 すごくあれは納得というか。あの時代に生きてみたいとたまに思ったりすることもありますね。

― 最近日本の演劇を観ていて思うのは、とにかくどんどん消費していく感じだなと。その感覚はお客さんだけじゃなくて、作り手にさえある気がしていて。これ、大丈夫なのかな、どこに行こうとしてるんだろうっていう。

岩城 それはありますよね。数打ちゃ当たるみたいな感じになってる。そこは市場自体がルーティーンで回ってるから作り手に数を要請するってこともあるだろうし、もっと根本的なことを言えば、日本の作品は国際マーケットに乗っていかないので、チェルフィッチュみたいに1作つくれば20都市以上回れるとかだったらそんなルーティーンは必要ないわけです。でも日本だとそれで暮らしていけない。しかもフランスみたいに助成金が付くわけでもない。でもその上で、そこで踏ん張らないと。
 お客さんにしても、ごく簡単なことを言えば、作品を観た後に何時間考えるか。単純に物量としてそこが少ない気がします。「面白かった〜、じゃあ次、何観に行く?」というルーティーン消費になってますよね。

― ツイッターも公演の告知には役に立つんだけど、わりともう感想のフォーマットが完成してきちゃったというか、「〜必見!」「〜観るべし!」「〜観たほうがいい」とか、できちゃってますね(笑)。それはもうその人の言葉なのかどうか。そして本当に作品を観て感じているのか。うまいこと言うために観るのでは本末転倒なわけです。むしろ「よっ、○○屋っ!」みたいなのがあればカラッとしていて面白そうだけど。

岩城 かけ声……(笑)。つまりこの国は、忘却の文化だと思うんですね。戦後の占領されたことについても忘却している。韓国人も中国人も、おそらくこんなに簡単に忘却はしないですよ。これは前に進むためのひとつの才能だとも思うんですけど、許容と忘却は違うしね……。なかったことにしちゃう忘却の文化が日本にはある。ツイッターも、流れていく情報じゃないですか。言ったきり、流れていく。でも本にするっていうのは、スタティックな情報なので、固定する、軸を据えるって作業をしなくちゃいけなくて、それはある程度自分の発言に勇気がないとできないことではあるんですけど、それに対してだいぶ身構えちゃう感覚の人が増えているのかな、って帰ってくるたびに思います。
 そこは単一民族で、阿吽の呼吸で分かっちゃうからかもしれない。最先端の言語ってたぶん、阿吽なんですよ。言葉は遅れてしまうから。でも一回そこでスタティックな情報をつくっておかないと、そこからの議論が始まらない。

― 議論を前に進めていくための、基本の土台のようなものが必要ということですね。最近その必要性は非常に感じます。

岩城 こんなこと言ったらアレですけど、こうした本を出版するにあたって、私は最適な人間ではないと思うんですね。もっとふさわしい人はいる。ただ、唯一私にアドバンテージがあるとしたら、インサイダーとして10年演劇ジャーナリズムをやってきたのと同時に、アウトサイダーとして外側の人間にどう伝えるか、その両方があるということです。そうでないと、インサイダーにしか伝わらないジャーゴンの言葉になっちゃうから。
 例えて言うなら、この本は、ものすごいラーメン通の人が書いたラーメンガイドではないんですよ(笑)。ただ、たまたま外国のラーメンにもそれなりに詳しくて、比較文化的、社会学的に日本のラーメンについて書ける人。それが私なんだと思う。だから単純に日本の演劇の専門家から見たら、浅いと思います。ただ私はロンドンで演劇社会学を勉強していますし、そうした視点もひっくるめて書ける人は少ないと思う。


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