マンスリー・ブリコメンド(2013年7月)

7月のマンスリー・ブリコメンドです(コンセプトはこちら)。

こんにちは。
すっかり梅雨もあけて、夏本番の暑さですね。
今月もよろしくお願いしますー。(落)

★メンバーのプロフィールはこちら。http://d.hatena.ne.jp/bricolaq/20120930/p1



今月のブリコメンド

藤原ちから/プルサーマル・フジコ twitter:@pulfujiko


カトリヒデトシ twitter:@hide_KATORI


徳永京子(とくなが・きょうこ) twitter:@k_tokunaga


西尾孔志(にしお・ひろし) twitter:@nishiohiroshi


古賀菜々絵(こが・ななえ)


シリーズ「存在と生活のアート」vol.6『修平さん、いらっしゃい!〜僕の友が、彼の友へ〜』

7月4日(木)〜21日(日)木曜日〜日曜日のみ開廊@A/Aギャラリー(末広町
http://www.ableart.org/topic/gallery/2013_23sonzai6.html#

昨年、奈良県障害者芸術祭の演劇作品のアフタートークに招かれた際に立ち寄った関連企画「アートリンクプロジェクト」という展覧会、障害がある人とアーティスト10組が交流を通じて作品を制作するというものだったのだが、一緒に絵を描いたり書をたしなんだりして形になった作品が展示されていた中で、宮本博史と山口修平によるインスタレーションはひと際わたしの目を引いた。
アパートの一室ほどの長方形のスペースの長い辺に、会議室にあるような長机二脚ずつ並べてあって、その間には白い巨大なまな板みたいな台が配され、中央に布団が敷いてあり、布団をはさむように二台のテレビが置かれている。長机の上には二人が共に過ごした一週間の証明である無数のゴミが並べられている。テレビに映し出されるのは互いが相手を撮った時間である。
メディアクリエーターの宮本が山口の職場を訪れ事前の取材するうちに、一方的に生活領域に侵入していくことを「フェアではない」と感じ、山口を自宅に招いて宮本の両親ともども暮らし始める。山口が通う施設スタッフとの間で交わされた「連絡帳」には、宮本が自宅から施設へ山口を送迎することの取り決めが書かれていて、「本人と介護者とも5割引」になっている二人分の切符が並んで展示されていた。
企画した人に「これ一週間じゃ、もったいないですね」と告げると「ずっと続いていきますよ、きっと。そういう人なんです、宮本さん」と意味深長な言葉が返ってきた。
果たして、その後もわたしの知らないところで二人の作品は続いていた。あの後、こんどは宮本の友人と山口が出会い、ともに日々を送ったらしい。
わたしはこの数年、創作にいきづまった「芸術家」が「障害者」との出会いを利用するさまを数多く見てきた。ときに生徒とし、ときに題材とし、ときに助成金の根拠とし。宮本はそんな「芸術家」たちを批難するでもなく、とぼけた装いで超えていく。それは他者との関わり方の違いのレベルの話だが、でもじつはそこで決着はついていたりする。(励滋)



カトリ企画UR『紙風船文様vol.2』

7月22日(月)〜28日(日)@アトリエセンティオ(北池袋、板橋)
http://www.katorihidetoshi.com/kk/

岸田國士の戯曲『紙風船』を、複数人の演出家が手がけていく企画の第二弾。今回の演出家は、前作『さよなら日本』で新境地に踏み込んだ範宙遊泳の山本卓卓で、俳優は黒岩三佳、武谷公雄のふたりが企画を通して出演することになっている。山本卓卓からは、日常の違和感(と呼びたくなる様々な居心地、気味の悪さ)を見ないふりでやり過ごさないという、つらぬくような視線の力を感じる。そんな彼が、一緒に暮らしながらもほんの少し倦んでしまっている夫婦の姿をどう見せるか、たいへん興味がある。すでにvol.1を手がけた鳥公園の西尾佳織バージョンはアトリエでの初演を経て、巣鴨教会の礼拝堂での再演も行っている。上演場所という変数ひとつで、俳優が思いもよらない広がりとゆらぎを手にするさまを観て私は、この戯曲世界の奥行き、淵の深さをあらためて感じた。
折しも『紙風船』は、今月末に開催される利賀演劇人コンクール2013の課題戯曲のひとつでもあるし、25日(木)には、一日だけ、西尾佳織バージョンの再演もある。今夏生まれるいくつもの夫婦の情景を想像しながら、繰り返すほどに削ぎ落とされて、それでも残る愛と哀しみが世界のどこかに降り積もっていくのを、感じたい。(落)



東京デスロック『シンポジウム』

【横浜公演】7月13日(土)〜7月21日(日)@STスポット(横浜)
【富士見公演】7月27日(土)〜7月28日(日)@富士見市民文化会館キラリ☆ふじみ(鶴瀬)

http://deathlock.specters.net/

“会話”と“対話”は違うのだ、という考えを学んだのは、平田オリザの著書『演劇入門』による。平田オリザによれば、会話というのは価値観や生活習慣なども近い親しい者同士のおしゃべりで、対話はあまり親しくない人同士の価値や情報の交換。あるいは親しい人同士でも、価値観が異なるときに起こるその摺り合わせなどをさすという。
さて、哲学者、医者、喜劇作家などの異業種の面々が宴をしながら愛について語り合うというプラトンの『饗宴』をもとにした本作だが、7月4日(木)に行われたイベント、pre-SYMPOSIUM in TOKYOを観て思ったのは、多田淳之介が生み出そうとしているのは、まさにこの対話なのだということ。昨年作られた『モラトリアム』『リハビリテーション』『カウンセリング』の三作品を周到に経た上で、いよいよ対話とは何か、という問題に切り込もうとしているように思える。もう少し、愛を語るというテーマに絡めて考えるなら、これはコミュニケーションをめぐる作品になるのではないかとも思う。愛というのが“あなた”とコミュニケーションしたいという欲求から始まるとして、対話が「価値観が異なるときに起こるその摺り合わせ」であれば、摩擦もときには起こるはずだ。でも人と人(あるいは人じゃないこともあるかも)の間に生まれるコミュニケーションや、想像力や行動の軌跡の全部を通して、何かを生み育てていく関係性が持つ可能性。その一部にもしかしたら観客の私もなれるかもしれない、という予感がある。だから、自分も饗宴に招かれたお客のつもりで、ふらっと遊びに行ってみたい。原作の『饗宴』には、アリストデモスというソクラテスの友達は、宴席に招かれていなかったけど途中で会ったソクラテスに連れていかれた、なんていう記述もあることだし、気負わずに、楽しむつもりで。(落)