2/3 稽古場から、午後2時の太陽

詳しくは以前、別のところで書いたけども、マームとジプシーの稽古は、「台本を渡す」→「役者が暗記」→「稽古で他と合わせる」といった手続きを基本的には踏まない。そこでは、役者に求められるのはテクストやその発語のタイミングを覚えることではなく、セリフの背後に広がっているイメージをつかみとって、その声や身体を通して舞台上に何ごとかを顕現することだ、と思える。そのやりとりの中からセリフが生まれることもあり、藤田は稽古場に置いたパソコンでリアルタイムに台本を書き換えていく。「戯曲を書くこと」と「俳優を演出すること」は、少なくともここではひと繋がりの、スリリングな緊張を伴った行為のようである。Q
 

TK 台本を配らないのは、俳優が芝居の全貌を見てしまうのが嘘っぱちに思えるのもあるんですよね。例えば実子はある女の人のセリフだけを必要としてるのに、台本には全部のことが書かれてしまってる。そこが見えちゃうのはどうなのかって疑問があるんです。今はまだ公演2カ月前ってこともあるから、みんなで笑い合って、そこから出てきた言葉に動きを振り付けていくほうがピュアな気がしてますね。

◆―― 大雑把な言い方になるけど、20世紀って「書き言葉=エクリチュール」の力が強かったと思うのね。出版やアカデミズムの仕組みが確立されたってこともあるし。文学や演劇にしても、明治以降の西洋文化を輸入してきた経緯があるから、オリジナルの戯曲(テクスト)への信仰はどうしても強くあったと思う。マームが稽古場でやってることは、別にそのことへの反抗や否定ではないと思うんだけど、とはいえすごく見ていてしっくり感じられるというか、フレキシブルな流動性のようなものを生み出してる気がするんですよね。そこから舞台表現の持てる豊かさが開拓される感じがするというか。

TK もちろん、書き物として、作家として、強くなりたいと思ってますよ。そこは。

◆―― 作家単体として、ってことですよね。それは分かります。でもこないだの「ユリイカ」(2011年5月号)の文章にしても、『〈建築〉としてのブックガイド』に書いてくれた原稿にしても、藤田くんはじゅうぶん机の上で書ける人だと思うんですね。だけど稽古場って、映画作家や小説家には持ちえないラボラトリー(実験室)ですよね。今日の稽古でも、召田さんの「何もないじゃない、かー!」のセリフが出た瞬間にシーンが強く動いて変なグルーヴが発生してたし。

Pj  (笑)

◆―― あの展開は、召田実子という俳優の存在とか、あの稽古場の時間を抜きにしてはありえないことだと思うんですよ。

TK そう、ほんとに今日はあのセリフひとつでひらけたものがありますね。戯曲について思うのは、机の上で完成させちゃったら動かせないものが出て来ちゃうってこと。例えば今日水道が止まったとか、日々状況は変わるし、そこに影響されたいんですよ。もちろん、みんなの日常を全て拾うことは無理。恋人の日常を分かることが無理なように、それをしたら破綻する。ただ僕は僕なりに一生懸命生きてて、生活の中で日々いろんな変更点がある。それを入れられない作品は作りたくないんです。それに机上で完成させてくと、過去のものを見ているような気持ちになっちゃって、そしたら、自分の中の純文が壊れてくと思うんです。

◆―― 純文って?

TK 例えば梶井基次郎の『檸檬』の、あの形式美。丸善の本棚の本をガタガタ重ねて、上にレモンを置いて丸善を出ていく、そのレモンが爆発するんじゃないかって妄想しているような。

◆―― へえー、ふつう純文学っていうと、むしろ確定された過去のテクスト信仰に近づきそうなものだけど、藤田くんの中では逆にもっと「今」を生きてる感じなのかな。

TK 梶井基次郎ってたぶん一篇の小説を書くのに凄い時間を費やした人だと思うんですね。未完の短編とかありながら31才で亡くなったんですけど。

◆―― ほんとに昔の人は早世だよね……。30歳そこそこで死ぬかもしれないって人生観と、まあ70歳過ぎまでは普通に生きるだろうっていう現代の感覚とは違うだろうね。

TK そうですね。結核とか、マジで治しようのない病気が今より多かったから。ほんと昔の作家のモチベーションは違うんだなってことを、20世紀とか21世紀って言葉を聞くとあらためて思います。尾崎翠さんなんて、机に座りすぎて下の畳を腐らせてるんですよ。僕も稽古場では地べたに座りたいし、公演でも開演ぎりぎりまで役者とコーヒー飲んでくっちゃべっていたい。
Pj  床を腐らせるのね……(苦笑)。
TK 宮沢賢治とかさ、自分がガブガブ血を吐いてる最中に見た空はなんて透き通ってる風でしょう、みたい文章読むと、お前!って思うよね。あんなことはないよ。

◆―― そんな話を聞くと、病床で結核を患っている正岡子規のこととか思い出しますね。

TK そう! 布団で横になって見てるから、画面の中で木が横になってるはずなんですよ。漫画家の高野文子さんも、具合悪くて倒れた時に、弟の足が目の前にある映像を描いてたり。僕はそこをやりたいんです。そこが自由自在になったらヤバいと思う。

◆―― ああ、今日、稽古場でも実際にちょっとやってましたよね? あれを見て、ついにこの人たち重力と戦い始めたなーって思った(笑)。

Pj  うん、戦い始めた(笑)。

◆―― 夏の3連作のうち、7月の『待ってた食卓、』は初めての北海道公演で、藤田くんにとっては故郷(伊達市)への凱旋にもなると思うけども、北海道という、あの大きなフロンティアだった土地だからこそ生まれるものもありそうですね。開拓者たちの夢とか挫折とか、あったと思うし。

TK すごくいい作品になると思いますよ。今までは「町」っていうのを1時間半なり2時間なりの尺で描いてたけど、今回の夏の3連作を全部見てくれたら、きっとクロニクルの全貌が見えてきて絶対面白いと思います。

◆―― ここ数作、「町」のランドスケープを見せることにこだわっているように思うけど、今日の稽古場では、登場人物たちそれぞれの距離感みたいなのが見えてくる気がしました。

TK そうですね。言葉は悪いけど、ホームレスのおじさんが貧しくても、気が狂ってても、「午後2時」とか「朝」とかって時間は平等に訪れますよね。例えばある町の空を飛行機が飛んでたら、その音をみんな聴くことになっている。その「そうなっている」感じが今、気になるんです。そこは平田オリザさんの『演劇入門』に書いてあった「セミパブリックな場所」とか「運命共同体」って言葉から引っかかってきたところではあるんだけど、でも僕の芝居が描くのは同じところに向かって運命を共にする人ではない。もっとノイズがあるというか。だけど午後2時に誰かがどこかにいるってことは平等にあるんですよ。

◆―― 最近の作品で、三人称とか神の視点とかでもない、偏在性のような別の語り手がどこかにいるような気がするのは、その辺りにヒントがあるのかもしれないですね。例えば『あ、ストレンジャー』では、床に描かれてある地図を太陽の光が照らしていたわけですけど。

TK あの太陽もまさにそれで、部屋の中にいても外にいても、太陽が今昇ってるって感覚はどこかで体験してるはず。そのあたりがここ数作の、「町」のランドスケープを見せたいという発想にも確かに繋がっていると思いますね。


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