1/3『東京演劇現在形』とは?

― どういった内容の本なんですか?

岩城京子 私とほぼ同世代の演劇作家たちにインタビューしたものです。私の嗜好的なセンスで編集しているので、それなりの意図をもって編み上げたインタビュー集ですね。それぞれに短い序文がついていて、ちょっとした論評になっています。が、基本的に批評書にはしたくなかった。この8人を「○○系統の人たちである」と括るのではなくて、単純にこの作家たちの存在を紹介する、広める、理解を深めるといった意図で話を聞きました。私やこの本は、それを伝えるための「媒介者」として機能すればいいと思ってます。

― 先日のブログ(http://kyokoiwaki.com/Archive/blog000445.html)も拝見しましたけども、帰国されて早々に観劇されつつ、よく書かれましたね(笑)。そこにも批評の問題などについて書かれていたと思いますが、その「媒介者」としての感覚についてもう少し聞かせてください。批評との違いはありますか?

岩城 単純に、ジャーナリストと批評家では作業が違っていると思うんです。批評家は、自分なりの意見をクリエイトする人であって、その受け手側のことはそこまで考えなくてもいい。でもジャーナリストの作業として私が考えているのは、まず「聞く」ということなんです。それは取材対象者の話を聞くだけでなく、社会的なニーズを聞くってことも大事で。そのニーズに適確に応答する形で書くことで、コミュニケーションを生まないといけない。それがジャーナリストです。その立場から人に意見を伝えていきたい、あるいは対話をしていきたいと思ってます。
 つまり批評家にとって「意見を言うこと」が第一にあるとしたら、ジャーナリストはまず「意見を聞くこと」から始まって、それを拾って、伝えて、さらに深めていく、そうした段階が必要で、一方通行というよりも双方向的なオープンさが強まる。私は批評すること以上に、ジャーナリスティックな速度が必要だと思ってるんです。

― 速度というのは?

岩城 伝える速度もそうだし、相手のニーズがこっちに伝わる速度もそう。そのやりとりの速度がないと、情報として有用性がなくなってくることもあるでしょう? そして社会との繋がりや時代を読みながら、言葉を紡いでいく、ってことを考えた時に、「媒介者」が必要とされると思ったんですね。
 出版の最初の動機としては、例えばドイツに行ってドイツ演劇について知りたいと思った時に、まずレファレンス(参照できる資料)を探しますよね。ただ舞台を観るだけだと職業的に理解が深まらないので、どういった社会的文脈でそのシーンがクリエイトされているかを考えるために。そうすると、ドイツ語だけで書かれているものと、英語でも書かれているものがある。前者が圧倒的に数は多いんですけど、私を含めた多くの外国陣はドイツ語が読めないので英語のものは親切というか、世界に対してひらかれている。それが大事だと思ったんです。フランス語であれば私は少し読めるからいいけども、読めない人にとっては、無いも同然で抹殺されるわけです。
 で、翻って考えてみると、日本ではさらに日本語で書かれているものがほとんど。これじゃせっかく面白いものを作っていても完全に閉鎖社会になってしまう。そうした不安がありました。だからレファレンスになるものを、媒介者として、きちんと自分で書く必要があると思ったんです。
 今はネットがあるとはいえ、やっぱりそれはプライマリー・レファレンスにならないんですね。例えば外国人で「日本の演劇を研究しよう!」って人が出てきた時に、最初に参照するのはやっぱり本なんですよ。それが仮にものすごく優れた研究書ではないとしても、入口にはなりうると思ったんです。

― 和英のバイリンガルにしている理由は?

岩城 まず、西洋の文脈に絡め取られたくなかった。日本のアーティストが進出した時に、まず外国の記者の言葉であちらに紹介されるんですね。それはそれであっていいんですけど、日本人が向こう側が読める言葉でも発信していくべきではないかと思うんです。なぜなら、明らかにあっちの記者よりも日本の記者のほうが日本のアーティストのことを理解しているから。

― 確かにそれなりの年数、いくつもの作品も観てきてますしね。

岩城 そう、10年くらい付き合ってきてるわけだし、そのキャリアを踏まえた上できちんと伝えたかった。しかも私は彼らと同世代っていうアドバンテージがあります。日本の中でさえも、先行世代の批評家たちにはどちらかというとネガティブな烙印を押されがちな人たちなので、そこにも異論を唱えたいと思って序文でも書いたんですけど、「彼らはポジティブに世界を捉えている」ってことを言いたかった。
 ……ええと、バイリンガルの理由でしたね。和英で書いた理由としてはもうひとつ、日本のお客さんに対して「日本の演劇は世界と繋がっているんだよ」ってことを示唆したかった。和英で書かれていると「これって外国の人間が読んでも何かしら考えうるものなんだ」といった意識で読めるじゃないですか。その意識が日本の演劇社会には欠落していると思うので、そういった閉鎖性を解き放ちたかったんです。


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